函館大火と煉瓦建築

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 その後明治五年開拓使により茂辺地村に煉瓦及び瓦製造所が開設され、七年九月には函館豊川町に煉瓦製の常備倉四棟が完成したが、その堅牢さは市民の注目するところであった。その理由は函館は以前からたびたび大火に見舞われることが多く、原因の主なものとしては、道路が狭く、屈曲していること、家の造りが粗末で火災に弱いことなどが挙げられており、火災に強い建物を建設することは、官民共に強く望むところであったからである。
 このようなおり、明治十一年十一月十六日、九五四戸を焼失する火災が函館に発生したが、火災後函館支庁は直ちに街路改正の令を発した。要点を抄出すると、
 
  一 大通及び山手より海岸に出る両側の家屋は石造、煉化石、土蔵等不燃質の建築たるを要し、もし資力及び難き者は塗屋に建築せしむべし
   一 消防線緊要の場所、石造、煉化石、土蔵等建築の者は相当の割合を以て資金を貸付し、其資力薄弱已むを得ざる者は一時官設し、売下げ又は貸家とすべしと雖も、実際調査後更に禀議すべし
 
 というものであった。その後この街路改正案に基づき、焼失地域では道路の拡張と建物の不燃化に取り掛ったが、又もや明治十二年十二月六日、民家二、二四五戸、その他官舎、学校、社寺等三一か所焼失という未曽有の大火に見舞われた。しかし前年区画整理や不燃建築化した地域では完全に防火ができた。
 このことを見た一般市民は、区画整理や建物の不燃化に積極的に協力するようになり、函館支庁の家居改良費の貸付希望者は一七名と少なかったが、煉瓦、瓦製造業者による製品の値下げ、品質の改良などもあり、函館の西部地区に不燃化建築が相次いで建てられるようになった。このように不燃化建築物が建てられるようになったことから煉瓦や瓦の需要も急速に増加し、亀田地域の煉瓦、瓦工場は次第に大規模な生産設備を備えるようになった。
 なお、このころ生産されたものは煉瓦や瓦ばかりでなく、水筒、花瓶、燈籠なども金子利吉によって作られており、明治十年内国勧業博覧会ではこれら水筒、燈籠が褒状を受け、更に十四年に開かれた函館農業仮博覧会に出品した水筒が優等賞を授けられている。その後明治の中ごろより道内では鉄道、港湾、橋、工場、倉庫、店舗、民家などの建設に煉瓦は欠くべからざるものとなり、年々その生産額は増加し、設備も充実して行った。