中川嘉兵衛と製氷事業

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中川嘉兵衛 市立函館図書館蔵

 『中川嘉兵衛と其採氷事業』(要約)によれば、慶応三(一八六七)年願乗寺川わき三千坪の新池で、二五〇屯の薄氷を得、これを横浜に移出したが、新池の開削費や外国船運賃などのため損失となったと言われている。『柳田藤吉翁口述経歴談』(北大図書館蔵)によれば、「水田ヲ造リ願乗寺川ノ水ヲ引キテ結氷セシムル手段ヲ取リタリ。此計画ハ幸ニ成功スヘク見ヘタルガ、不幸ニモ此年大風吹続キ、大森浜ヨリ土砂ヲ吹飛ハスコト非常ニシテ、切角凍結シツツアリシ水ハ全然砂氷ト化シ去リ、又モ第二ノ失敗ヲ招キタリ。茲ニ於テ中川氏ハ百計尽キ、終ニ彼ノ英人ブライキストン氏ニ謀リ、同氏ノ忠告ニ随ヒ英人ジョージ氏ヲ傭ヒ入レ、五稜郭外堀ニ於テ始メテ完全ノ天然氷ヲ製造シ得ルニ至リシハ実ニ明治四、五年ノ交ナリキ」とあり、慶応三年に願乗寺川わきで製造された氷は一応の成功は見たものの、天候のため薄く、また強風のため大森浜の砂が混入するなどの欠点があったものであろう。中川嘉兵衛は立地条件のよい五稜郭外堀に製氷場を移し、前記の英人の力を借りた。なお、前記『経歴談』では明治四、五年ころより五稜郭で製氷と記されているが、実際には明治二年より五稜郭外堀で製氷を行い、上質氷五百トンを得、外国帆船で横浜へ運び、多額の利益を得るに至った。
 当時横浜ではボストンアイスカンパニーが氷の独占販売をしていたが、中川嘉兵衛製造の氷の出現により独占経営を脅かされるのを恐れていたようで、前記『経歴談』には、明治三年函館の柳田藤吉願乗寺川の氷で冷凍したにしん、ぶりを横浜に移出したが、ボストンアイスカンパニーはこの時の氷を六千円の大金で購入、「一応検分ノ上、是レ小便氷ナリ、不潔物ナリ、世上ノ用ニ供スルニ足ラズト聲言シテ悉皆之ヲ横浜港内ノ水底ニ投棄シタリ。」とあり、このような行為により函館産氷のイメージを悪化させ、販売を妨害する政策をとった。
 このほかにも種々な妨げもあったが、中川は米国から氷採集用器械を購入し改良を加え、更に製氷技術の研究改善を図ったので、次第にその産額も増加した。

[製氷実績]


神山村氷切り 市立函館図書館蔵

 その後明治六年中川は函館支庁に対してボストンアイスカンパニー社との競争による資金損失を理由として函館氷の十年間専売を出願した。これに対して開拓使は同年二月、年に氷百トンと金二百円を上納することを条件として五か年間の専売を許可した。中川の製造した氷は上表のとおりである。
 なお、前記成島『天然氷』によれば、明治六年から九年までの間に、合計八、〇二五トンの五稜郭氷を香港に送ったと記録されているが、五稜郭の氷製造高と合わないので疑問が残り、恐らくほかの氷が入っているのではないかと思われる。