函樽鉄道の建設

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 函館・小樽間を結ぶ鉄道建設は、開拓上の必要により早くから望まれていたが、いずれにしてもその建設資金が膨大にかかり過ぎることが障害となって行き詰まっていた。このため比較的建設資金の少なくて済む奥地の鉄道建設にどんどん追い抜かれて行ったが、こうした状態の中で北海道庁技師平井晴二郎は、明治十九年函館・小樽間を測量し、明治二十一年報告書を北海道長官に提出した。
 
  小樽、函館間路線は小樽色内町に於て幌内線より分岐し、蘭島に達し余市川を渡り、稲穂峠を越え、南部茶屋より東岸に折れ、まっかり嶽の昿原を通過し、メナタップ山脚に出て、ネップ山を越え黒松内、長万部を経て海岸に達し国縫、黒岩、山越内、野田追、落部、石倉等の村落を過ぎて森に至り南に折れ峠下に至り亀田に達し、西南方位に進み、函館港造船所用地内を経て予定桟橋に終る。(中略)
  建設費は八〇〇万円を要し、開業後の収入四〇万円、支出二八万円にして一二万円の益金を見るを得べし。
 
 その後明治二十五年第三回帝国議会に函館・小樽間の鉄道敷設計画が提案されたが未調査であることや予算等の問題により削除され、翌明治二十六年三月、時の北海道長官北垣国道は、「北海道開拓意見具申書」に、「北海道開拓事業の最も急を要するものは鉄道である。」とし、その中で函館・小樽間の鉄道建設について強く要望した。
 更に北垣長官は明治二十八年七月、内務大臣野村靖に「鉄道敷設の義に付上申」を提出し、その中で次のごとく述べた。
 
  長万部より森駅に至る。
  長万部より国縫、黒岩、八雲、山越内、野田追、落部、石倉、鷲木等沿海村落原野を経過して森駅に至る。
  この間四個所の隧道(ズイドウ)あれども僅かに七百呎(フィート)以下の小工事なり。其他平坦にして工事難からず。
  森駅より函館港に至る。
  此区域は森駅より三軒茶屋、蓴菜沼を経て峠下村に至り、大野、七重両村の中間を過ぎ、亀田に至り函館港桟橋仮定地に達す。此幹線路は兵備上、拓殖上共に緊要のものにして、明治二十一年技師平井晴二郎の踏査設計に由るといえども、其撰定両稲穂峠を越え、且つ河川の多き為めに隧道、橋梁多額の工費を要し、全道幹線中無類の難工事なりしが、同二十八年技師佐藤勇の踏査に由り稍や変更を加へ、為めに両稲穂峠を越えずして其山脈中の低所に於て一線を発見し、為めに幾分の工費を減ずることを得べし。
 
 この当時このほかにも民間人による鉄道開設の請願もあったが、いずれも建設許可を受けるまでには至らなかった。
 しかし、ついに明治二十九年第九回帝国議会に取り上げられ、同年五月十四日、「北海道鉄道敷設法」として公布され、函館・小樽間の鉄道建設は予定鉄道線の中に含まれることになった。
 明治三十年四月二十九日、函樽鉄道発起人平田文右衛門らに対して仮免状が出され、三十一年七月には積雪による測量の遅れや金融事情逼(ひっ)迫による資金募集の困難を理由に仮免状の期限延期を願い出、三十二年十月までの延期が認められた。その後再度延期を願い出て十一月まで延期を許可され、後に明治三十三年五月から満八年間に敷設工事を完成させることを条件として本免状が交付された。しかし、経済的不況時代であり、その後も費用の調達に苦心し、ようやく明治三十三年十一月定款を変更し、社名を北海道鉄道株式会社と改め、明治三十四年六月より函館側は峠下トンネル、小樽側は忍路トンネルの工事に踏み切ることができた。
 その後明治三十五年第十六回帝国議会の議決により、起工から三年六か月以内に全線を完成させること、及び「北海道官設鉄道の経路上必要と認むるときは建設実費を以て鉄道及び付属物件を政府に買上ぐることあるべし。」の条件のもとに政府より補助金を受け、明治三十五年六月一日より第一期本工事が開始された。