亀田学校の誕生

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 亀田小学校の沿革誌及び『開拓使事業報告』(第四編)によると、亀田学校は明治十一年二月、学校設立のため官より金二五〇円を五年間の年賦で返納することにして貸与され、村民も金一五五円を分担して、民有建物一棟を買い入れ校舎に充て、三月開校した。亀田学校と称して正則小学科を教えたが、翌年六月、改めて村落小学科となり、十三年二月には変則科に改めた。この年、本村字田家の官地五町六反九畝一〇歩を学田として、大豆を蒔(ま)き二〇石八斗を収め、その代金は一二一円余であった。また本村共有の字常山の山林二六万九、六〇〇坪及び鍛冶、亀田共有の蓬揃山林一三万坪余を学校付属とした。十四年九月、明治天皇が北海道ご旅行のため来函せられた時に、生徒の栽培した馬鈴薯、玉蜀黍(とうきび)、甘蔗(かんしょ)、甘藍(かんらん)(キャベツ)などを天覧に供したという。この月、学校の建物敷地共金一六〇円で売り、さらに金四〇〇円をもって旧七重学校校舎を買い求めて移築に着手した。村人は各人馬を出して作業を助けた。敷地は山田某の寄付によるものである。十月、校舎が落成した。経費九一七円余、時任開拓大書記官を始め数十名が金三〇〇余円を寄付して費用を助けた。『函館毎日新聞』(十四年十月)は当時のことを次のように報じている。「亀田村の亀田学校に元七重学校の払い下げを買受けて、落成までに巨多の金額を費し、壮麗な校舎に成る。参観人が無慮二百名あり。」
 この年、学田およそ二町六反六畝歩に桑苗一千株を植え、その余はそばを蒔いたが、風害のため収穫は僅か四石四斗、代金一五円余であった。学校の維持については、学田学林の収入金及び援業料を基本として、不足分は戸数に割り当てたという。

開校当時一覧(開拓使事業報告第四編)


開校当時一覧

 十九年に至って、従来の校舎が狭くなったので、亀田八幡社裏に新築することになり、翌年二月落成した。経費は佐野定七、時任為基以下寄付一、〇〇〇円余、村人支出七五〇円、その他七五〇円は官の補助によった。二十五年四月、高等・尋常・簡易の三科を併置し、二十八年に簡易科を廃止した。