亀田学校の誕生の項において述べたように、明治十三年学田五町六反九畝十歩、大豆を収穫したこと、同十四年、生徒の栽培の野菜類を天覧に供したこと、また桑苗一、〇〇〇株の栽植、学林の経営などまことに実利的な教育であった。鍛冶学校、神山学校、赤川学校においても、学田、学林、桑栽植などにつとめていた。
「学畑景況」(明治十五年九月二十八日函館新聞)と題して次のように報じている。
「亀田郡中の小学校にして現術場を開きしは亀田、志苔、石崎の三校にして、志苔校は一段歩、石崎校は三段歩、亀田校は凡二畝歩ばかりの畑に甘藍、玉蜀黍、馬鈴薯其の他草花等三四種其の生立何れもよしとの事、何卒何れの校も学畑を起し、斯く盛になしたきことなり。」
これは「小学校生徒農桑現術仮規則」にもあるように、教育において農業実習あるいは作業を尊重して、単なる知識の習得におちいらないことを主眼とした北海道庁の考えに添ったものである。新聞記事は亀田学校の反別を少なく、更に三校だけ紹介しているが、亀田学校のみでなく、鍛冶、神山、赤川の各学校においても学畑を経営していた。
明治十八年、金子堅太郎、岩村通俊による「北海道の普通教育法を改正するの議」、あるいは明治二十年、岩村通俊の「教育の程度を低うす」によって、前者は無形高尚の教育法をやめて実利勧業的な実学を興すこと、経費を節約すること、給料の如き費用も省くことなど、後者も実用主義と拓地興産の観点に立って、単なる知識の習得ではなく、実利的であるべきことを強調している。
なお、「小学校生徒農桑現術仮規則」(『北海道教育史地方編一』)については、北海道開拓の目的を達するには農桑の業を盛んにすべきこと、生徒にその教育を行うべきことなどを規定し、明治十四年五月二十六日付黒田清隆より時任為基あてその実践について公書を発し、奨励していた。すなわち学校生徒教育上実用に疎く、虚文に流れることの弊害を避け、実用有益の材を養成する旨趣をもって先年教則改正をした点を考え、農桑現術の教育に尽力すべきことを述べた。