佐々木善松
明治二十三年一月三日、桔梗村に生まれた。桔梗小、亀田小高等科を卒業後、家業の農業を営んでいたが、大正十一年に小野総次郎村長にすすめられて収入役に就任した。
収入役当時桔梗村で税金を払えない家の分を立替え払いし、管内では上磯と共に桔梗を完納村にさせた。
昭和六年、桔梗信用組合の専務理事、後に組合長になったが専務理事当時、一軒一軒桔梗の農家をたずねて貯金させ、組合の基礎を築いた。
昭和十五年より村会議員をつとめ、昭和二十二年村長に当選したが、職員の和を大事にし、社交的な面を持つ村長として村政の指揮に当った。
在任中最も苦労したのは、亀田中学校の校舎新築工事であったと述懐している。渡島支庁の了解を得て、赤川飛行場跡に中学校を新築するため赤川の村有林を売り、校舎をほぼ完成させたころ、米軍司令部より工事中止命令が下った。村有財産の村有林は処分してしまったし、工事は中止されるし、赤川飛行場の使用はまかりならぬというので苦悩した村長は渡島支庁の係員と共に道庁に足を運んだり、仙台や函館にあった米軍司令部、憲兵隊に日参した。二十三年、議会開会中に突如米軍から使用許可がおり、議会に報告したあと男泣きに泣いたという。今でも「あんな苦労はしたことがなかった。」といっている。
次に、現在の産業道路のもとを作る際も大変な苦労をしたという。当時函館と亀田をつなぐ道路は、国道と赤川線、鍛治中道線の三本しかなかったが、これらを横につなぎ、湯の川へ抜ける道路はなかった。
そこで地主から寄付を求めたり、買収したりして、幅八間の道路をつくった。その後道路用地は道に寄付するから工事は道でやってくれと土木現業所に足を運んで実現させたものが現在の産業道路のもとである。
また、戦後まもないころは村内も食糧不足であったので道庁の食糧課へ足を運んで、燕麦や澱粉の二番粉をもらってきて配給したり、農家にはできるだけ薯やかぼちゃを供出してもらって食糧事情の緩和に努めた。
三十年四月まで村長を二期つとめた。現在八十九歳であるが健在である。