馬鈴薯と麦

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 昭和十八年の馬鈴薯を例にとると五割以上七割未満減収三四〇反、三割以上五割未満減収二、八五〇反、一割以上三割未満減収六五〇反、合計三、八四〇反歩、数量にして七五万六、〇〇〇貫、一五万、三五〇円の損害である。
 同年麦の反当収量を平年と比較してみると、

昭和十八年の旱害と麦

 このようにひとたび降雨がなければ甚大な被害を受け、冬期間採氷場とした池をため池に利用したが、それとてもわずかに役に立っただけであった。
 こうした事態は大正十三年、函館市の上水道用笹流ダムが拡張されて、いよいよ灌漑用水の不足に悩まされることになった。
 水不足になると稲の成育に直接支障を来すばかりでなく、肥料が充分吸収されないため、病気に対する抵抗力が弱まり、病虫害に侵されて低位生産を続けるので、水を得るために各種の灌漑排水事業をしなければならないが、そのための農民たちの労力と経費の負担は大きかった。
 戦後になっても水田の水不足は続き、昭和二十七年ころ、富岡の通称「土方の沼」から揚水ポンプで水揚げをしたり、亀田川の歓喜橋(産業道路)から消防自動車で揚水したこともあった。
 その後、昭和三十二年に鍛治ダムが完成したり、大野かんぱい事業がおしすすめられたり、昭和三十五年、函館市と亀田川の水利権について、「亀田村の現に保有する水利権を侵害しない範囲で中野ダムおよび笹流ダムに貯水できる」などという協定を結んで、亀田村の水不足も徐々に解消されるに至った。