青年会は、もともと次のような活動を行うものとして設置された。
優良青年の表彰、見学旅行、文書指導、巡回指導、産業講習会の提唱斡旋、一人一研究の提唱指導、幹部青年講習会、各町村中堅青年講習会など。
しかし、現実にはこのとおりの実行はなかなか困難なようであった。
大正五年、亀田村青年会では、亀田小学校前の道路を修繕したり、亀田村連合青年会主催の手工品品評会に参加した。
その他の青年会の活動の様子を大正七年の記録から拾ってみると、次のとおりである。
赤川青年会、赤川通青年会(冬期夜学会及農事試作ニ着手シツツアリ)
鍛神青年会(冬期夜学会及基本財産造成目的ヲ以テ植樹ヲナス)
石川野(現在の昭和地区)青年会(農事改良ノ目的ヲ以テ試作場ヲ設置シ改良上資料ヲ提供シツツアリ)
石川村青年会(夜学会及農事ノ試作ヲナシツツアリ)
桔梗青年会(補習教育ヲ開催シ、素学ノ維持ニ努力スルノ他、銃剣術等ヲ開催シ以テ青年ノ体力改善ニ努力シツツアリ)
亀田村の青年会は発会以来、このように独自に活動してきたが、その内容は必ずしも充分なものではなかった。
その原因は、適当な指導者が身近にいなかったこと、経済的な裏付けが弱かったこと、農作業の多忙、特に早朝函館市街へ下肥を競争して汲み取りに行かなければならなかったので、夜の会合の出席者は少なかったようである。
このような亀田村の青年会も大正十年には連合組織となった。同年九月十一日、亀田村連合青年第一回大会を開くベく、鍛神、石川野、五稜郭、赤川通り、亀田本村などの青年団員約三百余名は会場の亀田尋常高等小学校に団旗を押立てて集合し、開会式の席上、次の七名が優良青年として表彰された。
藤谷新蔵(桔梗村)本谷勝太郎(赤川村)鈴木重次郎(石川村)水島多三郎(鍛治村)照井兵之助(亀田村)小笠原正八(亀田村)木村時太郎(神山村)
このあと講演会にうつり、「青年の自覚」橋本文寿(函館師範学校校長)、「己れを知れ」佐藤在寛(函館毎日新聞記者)、「新日本建設の第一歩」堀川経道(函館新聞記者)、「陪審制度と少年法案の梗概」黒住成章(代議士)と題する講演があった。
午後からは、二〇〇、四〇〇メートル競走、八〇〇メートルリレー、マラソン、障害物競走、走高跳、角力などの競技大会を行った。
第二回大会は、翌十一年九月に鍛神小学校を会場として、亀田、鍛神、赤川、桔梗、石川などから三〇〇名の青年会員が参加して行われ、その後も会場を変えて続けた。
この青年会も戦争の影響を受けて、昭和十二年には、次のような活動を行った。
団員一九六名は、七月一日午前七時、本村忠魂碑の下に参集、忠魂碑より国道に至る間、六二六間の道路を各人に割当て、除草、地均し、溝掘作業を実行し、午後二時終了し、再び忠魂碑の下に集まり、閲団式を挙行、午後四時、万歳を三唱して解散した。
同じ十二年に桔梗青年会では次のような事業を行っていた。『北海道行政』四月号に掲載された西桔梗の小堀幸市の懸賞文を引用すれば次のとおりである。「(前略)村人は共同と相互扶助を念頭において総べて研究と業務の進行とに非常に競争的なのだ。毎月十日は公休日と決めて、仕事のおくれた家には、青年会の手伝で皆んな揃って休める様にされて居る。そうして社頭に集まって発見や研究を各々発表し合って居る。この様な理想郷ですが風俗言語が非常に悪いので、青年会では一昨年協議して、第一に言語から次に風俗習慣を改正致そうと協議一致して、現在では其の効がだんだん見えて居ります。あと二、三年も暮す内に必ず改めて見せるぞと意気込んで居る。
唯一つ一番憂慮されて居るのは消防のないことで、今年十五、六名からなる青年会員は、意を決して火防道具を買入れようとしている。家数は少ないが、消防ポンプのある所から非常に離れて居るので、是非青年会で何物の補助も受けず、火の見やぐらを立て、ポンプを買い入れようと意気込んでいる。それには去年まで未開地であった土地を三段歩ばかり借入れ、今年より馬鈴薯が研究的に作られて非常に好成績を上げて居ります。
之が五か年計画を樹立し、なほ外の事でも利のある場合は、全部この計画に使う事に可決されて居ります。
どんな障害があっても負けずに進もうと言う堅忍不抜の精神を養って、意気けんこうなるものがあります。(後略)」