大正時代の薯

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 明治四十年ころ、七飯村の川田農場で試作されたといわれている男爵薯が亀田村に持ち込まれた年代は明確ではないが、大体大正七、八年ころだと推定される。それ以前、亀田村で栽培されていた品種は、アーリーローズとヘプロンが大半を占めていた。昭和元年、渡島地方で栽培されていた馬鈴薯品種の割合は次のとおりである。
 
 アーリーローズ 五四・五% アメリカ大白 一三・六% ヘプロン 一三・〇% その他 一八・九%
 
 全道各地、渡島地方でも栽培されていたアメリカ大白が亀田村で栽培されなかったのは、この薯が晩生種で、大根との二毛作には適さなかったためである。アーリーローズとヘプロンは亀田村で生産され、函館市の人々の食用に供された。
 当時の農家の人たちの中には、生産費や生活費を函館のいわゆる薯商人から前借し、借金は収穫した薯を一括納入してそれにあてたという人もいた。年の暮になって、まだいくらかでも残金があるかと思い、金を受け取りに行くと剣もほろろに追い返されることもあったというみじめな話も残っている。

いも畑