亀田の種子薯

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 はじめ澱粉用原料として出発した亀田村の男爵薯が、後に「亀田の種薯」として、全国的に名声をとどろかせたのはなぜだろうか。
 昭和八年の満州事変に続く支那事変によって、再び澱粉が脚光を浴び始めた。更に昭和十二年ころから馬鈴薯を原料とする無水酒精工場が各地に建てられ、他府県の作付面積も急増した。昭和十三年より満州、朝鮮方面で種子用馬鈴薯としての需要が高まり、輸出が盛んになってきた。これらの理由により本道の種子用馬鈴薯としての需要が高まったのである。とりわけ極早生種である亀田の男爵薯を、本州で米の前作として植付けると収穫は良かったという。
 種子用馬鈴薯は一般馬鈴薯に比較して、生産費が割高であったが、高く売れたので、収益も多かった。昭和二十六年の全道平均では一般馬鈴薯の反当純収益が四、〇九三円であったのに対して、種子用薯のそれは、七、〇九八円であった。亀田村の農家が一般食用や澱粉の原料用ではなく、種子用薯の栽培にいち早く切り替え、力を入れたのには、このほかに次のような好条件があった。
 
○気候が温暖で、播種期が道内各地より早く、それだけ完熟させることができる。
○収穫期が早いため充分な乾燥が可能であり、輸送上損傷がないこと。
○本州との最短距離にあるため輸送に便利なこと。
○男爵薯発祥地に近く、純系種を栽培していること。
○徹底した病虫害の共同防除により、無病種薯を生産していること。
○昭和四年から亀田村農会が生産管理を指導し、協同販売を斡旋したり、昭和七年からは、馬鈴薯の販路調査をし、販路開拓を図るべく本州各地へ委員を派遣して、販路開拓をおし進めていたこと。
 
 特に亀田村の農民たちは、二毛作として、大根、後に白菜を薯の後に植える必要性から男爵薯の中でも特に早生で良質な品種を残すように努力した。男爵薯でも背丈の高いものは背高男爵と称して晩生型であったので、背丈が低く、葉の丸いものを残していくようにした。
 このような努力が実って、昭和八年には、全道から道外各府県に三〇万俵の種子薯を移出したが、渡島特産の男爵薯はその中二五万俵を占め、逐年増加の方向をたどっていった。

作付面積と生産高


馬鈴薯作付地 農事実行組合別作付面積