澱粉

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 明治十一年に北海道開拓使が始めた馬鈴薯澱粉の製造は、馬鈴薯の増産と相まって、年々盛んになっていった。
 全道の澱粉製造戸数は、明治三十七年にわずか七八五戸であったが、大正二年には約一〇倍強の八、四四七戸に急増し、生産量も、五〇三万七、一七八斤から約三倍の一、五八三万四、〇九七斤と増加した。もともと明治時代には道南地方が全道の澱粉生産額の過半を占めていたのであるが、大正二年には、上川支庁の六五六万斤についで、四四四万斤で二位となっていた。
 道南の澱粉製造は農家の副業として始められたものであり、小規模経営が多い。大正二年の一戸当りの全道生産高平均は、一、八七五斤で、専業的経営である千葉県の業者の三七、六五一斤とは比較にならないほどである。
 亀田村の場合も一事業所の職工数が四、五人と少なく、小規模経営であった。
 大正・昭和前期における亀田村の澱粉製造の概況は次のとおりである。

生産高と製造場数および生産額

 生産高をみてもわかるとおり、第一次世界大戦後の大正四年から六年ころのいわゆる澱粉黄金時代が、亀田村の澱粉製造にとっても全盛期であった。
 澱粉製造場は明治時代後半に設立された横田(神山)、北清園(守田・桔梗)、佐々木(桔梗)、水島(鍛治)、上井(桔梗)、田原(亀田)、松本(桔梗)、小笠原(亀田)、横山(桔梗)、西田(桔梗)、〓近江(神山)などに加えて、大正年間には、次の七製造場が開業した。

[開業した工場]

 右のうち、大正七年に筒井澱粉工場の経営者は松本善助に変わって松本第二澱粉工場になり、〓成田澱粉場は坂口寅松に変わって坂口澱粉工場となった。
 また、中には二、三年で廃業するものもあり、昭和十六年には、桔梗の西田、佐々木、松本と赤川の瓜谷、富岡の田原の五軒に減少し、昭和二十年には瓜谷も応召で休業して、四軒になった。
 亀田村で年間生産高の最も多かった大正六年の主な各製造場別の職工数と生産高は次のとおりである。

[大正六年の主な各製造場別職工数と生産高]

 澱粉の製造方法を記すと、原料は自家生産の馬鈴薯、または近所からくず薯を買い入れてこれにあてた。まず馬鈴薯を洗い、動力を使ってすりつぶさなければならない。大正時代、全道的に、その動力源を見ると、人力によるもの八七・三二%、馬力によるもの三・三〇%、水車によるもの八・五六%、ガスおよび石油発動機によるもの〇・五六%、蒸気機関によるもの〇・二一%、電力によるもの〇・〇五%(大正五年調べ)であった。
 しかし、同年、亀田村の動力源は、石油発動機を使用しているのは、鍛冶村字湯川通の水島澱粉工場と桔梗村字山崎の北清園(守田)の二軒だけで、あとの一一軒はすべて水車によっていた。
 すりつぶした馬鈴薯を二尺に五間くらいの木製の樋に水と一緒に流しておき、夕方になると上の方に白い澱粉、下の方に澱粉かすがたまる。この澱粉も上の方にたまる白色の一番粉と、その下の赤茶色の二番粉に分けられたが、函館方面の人たちは二番粉でもよく買い求めていったという。
 とり出してまだぬれている澱粉を一尺に三尺くらいのおりに入れ、日中は天日で乾燥させるが、夜間は薪を燃やしている乾燥室で干した。乾燥した澱粉はかたまりになっていたので、粉砕機にかけて粉にした。
 次に澱粉の販路を追ってみると、大正年間に北海道で生産された澱粉は、主に函館港と小樽港から本州などへ積み出されていた。大正五年に函館港から積み出された澱粉の仕向地と数量は次のとおりである。

[大正五年函館港移出澱粉仕向地・数量]

 これらの澱粉は更に大阪、神戸、東京、横浜の各港から主にフランス、イギリスなど欧州各地へ輸出されていった。
 なお、澱粉かすは養豚業者が安く買いとって飼料に用いた。