函館の電気事業の始まりは、明治二十九年一月十五日、園田実徳が創設した函館電燈所である。この発電所は、函館区東川町二四二番地(後に東雲町と改称)に三五キロワット二、〇〇〇ボルト発電機二台をすえ付けた火力発電所であった。それから一〇年後の明治三十九年九月、北海道セメント株式会社の阿部興人社長ほか六名の発起で資本金一〇〇万円の渡島水電株式会社を設立した。社長は阿部であったが同四十年一月三十一日、函館電燈所を吸収し園田が社長に返り咲いた。
渡島水電では、明治四十一年八月二十九日大沼の水を利用して鹿部村小川に五〇〇キロワット、二、三〇〇ボルトの発電機を二台すえ付けた水力発電所を完成させた。そして函館区陣屋通一番地に亀田変電所をつくり、二二、〇〇〇ボルトを二、二〇〇ボルトに下げて函館市内に供給した。この大沼水力発電所は本道では岩内、定山溪両水力発電所に続く三番目の発電所で、これによって函館の電源は安定し、電気の威力が存分に発揮されることになった。ただ惜しまれるのは、かつて函館電燈所が大沼の水に目をつけ、大沼の水を七飯村に落とす計画を立てたが村民に反対されて日の目をみなかったことである。これが実現されていたら亀田村の農業も大きな影響を受けていたであろう。
後に大野に水力発電所をつくった時も、干天のために田が水不足を来たすと、農民の中には「水を電気に変えるから、電気に変えた分だけ水が減ったのだ。」と真剣な顔で抗議した者もいたという。
その後渡島水電は大正九年四月十一日、函館区大字亀田村字村内八一番地の一に出力一、〇〇〇キロワットの火力発電所をつくり、函館に電力を補給しはじめ、函館水電が七月一日に帝国電力と社名変更した後、昭和十五年八月十二日、大日本電力株式会社に合併、その後渡島・桧山管内の電気事業、すなわち通称函水系事業は、昭和十七年四月一日に設立した北海道配電株式会社にすべて吸収された。