第二次世界大戦も峠を越しつつあった昭和二十年四月ころ、軍司令部より、軍用機専用、亀田村赤川飛行場建設の命令が下された。
函館重砲隊稲妻連隊の指揮のもとに警防団、各町内会に産業出動命令が下り、飛行場建設に急ピッチを上げたのである。場所は亀田村役場から西へ長さ約一、九〇〇メートル、幅約二六〇メートルの広さにわたって面績約一五万三、七〇〇坪が使用された。
戦後、飛行場のまん中に亀田中学校が建てられたし、滑走路であったところが、現在の道道上磯亀田湯川線(通称産業道路)となったことから、おおよその位置がわかると思う。
この場所は水田と畑が広がり、西方に小さな沢があった。
昭和二十年の産業統計によれば飛行場などのために使われた土地は、田地が三一町四反、畑地が一六町、合計四七町四反歩と記されている。この土地は石川寄りと赤川通り寄りがやや高く、西方の昭和方面に行くにしたがって低くなっていた。
工事は滑走路づくりと防空壕づくりの二手に分かれて始められた。参加したのは主に各町内会ごとに集められた百二、三〇人の住民と若干の軍属、土方人夫、大工、警防団員たちもまじっていた。住民の中には多数の婦人たちも参加し、中には僧侶も徴用され、檀家の人たちの同情をかっていたという。これらの人々が早朝から町会旗を先頭におし立てて集まってくる。八時半ころ、国旗掲揚の後、作業を開始した。トロッコの大きさは、縦五尺に幅三尺くらいで、その上に高さ三尺くらいのわく板をのせ、それに男たちがスコップで土を積んだ。土が一杯になると別の男たちがトロッコを押していく。Y字型の線路の一方から四、五両が出発して土をおろしている間に、もう一方の線のトロッコに土を積むという要領で作業が休みなく続けられていった。土は赤土の良質のもので、よく固まった。やわらかなところには近くの川から運んできた砂や砂利を敷いた。力仕事に慣れない人たちが動員されてきたため空腹と疲れから、働いているというより、ようやく動いているといった方がよかったという。
飛行場建設で特に困ったのは雨と飲料水と食糧不足であった。工事を急いでいたせいもあって少々の雨では工事を休むことはなかったが、ひとたび大粒の雨でも降れば、田畑のまん中であったので雨やどりするところもなくみんなずぶぬれになってしまった。雨が晴れそうになければ、四時過ぎの国旗降納を待たずに「終わり、解散」の号令で風呂敷などをかぶって帰っていったという。
工事に動員された人たちは、水筒に茶や水を入れて持参したが、それだけでは流れる汗の補給には足りず、近所の田原忠次郎や駒井アサ宅の井戸にもらい水に行ったという。夏の暑い日にはのどのかわいた人々が井戸に行列をつくったり、樽を借りて水を入れて行ったという。
弁当も各自持参であったが、食糧難の折から混ぜごはんにわずかなおかずが入っているような粗末なものであった。おなかのすいた人たちは、近所の農家から馬鈴薯をもらってきては生のまま、まるでりんごでもかじるように食べていたという。また、軍人は近くの農家から大豆を集めてきて、それを仕事の合間に、なべでいっては、大工たちにも食べさせていた。
滑走路と同時に防空壕づくりも飛行場の一角で行われていた。場所は飛行場の西方、駒井家の東側の近くであった。幅一〇メートル、長さ二〇メートルくらいの大きさで、まん中に廊下を取り、左右は六つくらいの小さな部屋に仕切られていた。高さは、地上一・五メートル、地下四メートルぐらいで、地下に降りるところには階段があった。
屋根には丸太を渡し、その上からコンクリートをかけたが、三分の一くらい工事が進んだところで終戦になった。
壁の厚さは薄いところで一メートル、厚いところで二メートルもあった。昭和五十年に駒井家で地上部分を取壊すだけで約一〇〇万円もかかったという。壊してみたところ鉄筋が一本も使用されていなかったそうである。この防空壕は軍属、土方人夫、大工たちによって作られていた。
滑走路の方も完成しないうちに終戦を迎えてしまったが、このほか近くに格納庫二棟のための基礎づくりのあとがあったという。
終戦を知らせる天皇の放送は、田原宅にあった自動車用のバッテリーを電源に、兵隊が持ってきたラジオで聞いた。長い剣をさげた二人の兵士のほかに兵卒が四人、一般住民も頭を下げて聞いていた。
この飛行場からは、ついに日本の飛行機は一度も離着陸しなかったが、戦後間もなく米軍の飛行機が二回飛来し着陸した。一回目は男二名、二回目は男女各一名ずつ降りて来たが、間もなくまたどこかへ飛び去って行ったという。
滑走路は赤土でしっかりと固められていたので、離着陸には全く支障がなかったそうである。