概況

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 昭和二十四年四月亀田村字港の一部が函館市に合併移管になってから、昭和四十八年十二月亀田市が函館市に合併になるまでの期間を昭和後期とした。敗戦というかつてない事態に遭遇し、食糧不足と物価高の苦難に耐え、数年後にはようやく落ち着きを取りもどし、以後経済成長もめざましく自治体においても個人生活においても、戦前を上回るほどの村勢に達し、今日に至っているのであるが、昭和後期における亀田市(村・町)の進展の経過を概観すると、おおよそ次のようである。
 第二次世界大戦に突入するや、各種産業の発展と、特に五稜郭駅を中心とする鉄道施設の拡大に伴って需要が増大し、字本町・港方面は人口が増加し、これによって中小商工業が振興し、会社工場も逐年増加して、村勢は一段と飛躍を遂げた。
 続いて昭和十八年三月に、一・二級町村制が廃止となり、二十二年五月には日本国憲法施行、地方自治法施行によって村行政は大きく変革して、自治の確立と振興に飛躍的発展をもたらした。
 かくして二十四年四月一日には、会社工場並びに消費者住民の急激に増加した「字港の一部」(面積およそ九七町六反三畝・戸数一、四一一戸・人口六、四〇三人)を函館市に合併移管し、純農村として躍進を続けた。
 越えて三十年に入るや字港の一部を合併移管後も、字本町地区の戸口は年々増加し、管内においても有数の農村として躍進を続けたが、三十七年に至っては字本町地区に加えて字富岡・中道・本道などの当村中心市街地の新築戸数は急激に増加の一途をたどり、村戸数の六割を占める市街地を形成する村勢となったので、ついに村民の総意により昭和三十七年一月一日を期し「町制」を施行した。また、このころになって、国道五号線ぞいの字昭和地区は、工場設置適地に認められ、大中企業の進出が目立ち、農業の進展と相まって町勢はますます発展を続けた。
 そののちも四十年以後は、これら中心市街地には年間約五〇〇戸の住宅新築があり、四十年三月三十一日現在で町の人口は二万六、七八二人をかぞえ(四十年五月三十一日現在で二万七、一九三人となる)、上磯町をしのいで渡島管内のトップになった。人口増加とともに字昭和地区には既に五〇の工場が操業を開始している状態となり、今後はこの地区ばかりでなく町全体にわたって、進出することも予想されることから、農業の近代化とともに工業化都市へと町勢は発展を続けるものと期待されてきた。
 人口増加、住宅建築は更に拍車をかけ、年間六〇〇戸から八〇〇戸の新築住宅が増え、これに伴って人口も増え、四十二年十月一日の人口実態調査では、世帯数九、一六六戸、人口三万五、四七〇人をかぞえ、道内町村では登別町に次いで二番目の町となった。この傾向はなおも続き、四十三年七月には三万九、〇〇〇人となり、同年十月には四万人と膨れ上った。
 更に字本町・富岡など中心市街地区のほかに、字赤川通・鍛治地区にも市街地がつづくようになり、住宅建築並びに人口増加にもいちじるしい伸びをみせ、四十四年十月一日に四万四、七八一人、翌十一月末には四万五、八四八人となって、登別町を抜き、全道一の町となった。
 かくして国道五号線ぞいの字昭和地区は交通利便などから大中企業の進出が更に多くなり、八〇を越す工場が操業しており、一方町の主要産業だった農業も近代化へと進み、工業化都市の色あいを濃くしていくうちにも、四十五年十月の国勢調査には町村としての人口では全国でも珍らしく五万人を突破した。この町勢現況から「市制施行」を望む声が盛り上がり、四十六年中実施を目標に「市制施行準備室」を設け、着々と準備をすすめた。
 かくて昭和四十六年十一月一日には市制施行が実現し、道内では三十二番目の「市」の誕生をみるに至り、人口も五万六千余となり、翌四十七年七月には六万人を越えてますます隆盛をつづけた。
 四十八年は市制施行二周年目となり、また三十七年町制施行以来十一年目をむかえたのであるが、亀田の古い長い歴史のなかでも特に昭和後期における亀田市(村・町)の躍進ぶりは実にめざましいものがあった。いまや亀田市は四十八年十二月一日を期して、函館市との合併を予定されているが、合併後も旧亀田市の地域は、かぎりなくとどまることなく前進発展をつづけることであろう。