昭和四十年には、亀田小学校の分校として昭和小学校を設立、四十六年には、鍛神小学校の分校として本通小学校を設置し、二年後昭和小学校の分校として中央小学校が誕生することになった。
本通小学校の児童の多くは亀田小学校から移送したので、はじめは亀田小学校の分校として発足するものと考えたが、本通地区は鍛神小学校の通学区域であった点や、亀田小学校に分校(昭和小学校)が誕生して間もないのに再度分校ということは常識的に説明できない問題でもあり、鍛神小学校の分校として計画したものである。
これと同様に、中央小学校の場合は、移送する児童の大多数が鍛神小学校に在籍しているため、鍛神小学校の分校として計画されるものと考えたが、二年前、鍛神小学校の分校として本通小学校が設立されたばかりで、引き続き分校を計画することは不可能であり、また昭和小学校のマンモス化を防止するため、通学区域の変更を考える必要を認め、道教育庁、渡島教育局と協議の結果、昭和小学校の分校として計画することとなった。
計画はその場その場において修正されるものではなく、長期的展望によるべきことであるが、亀田の場合、計画の修正変更はやむを得ない事情にあった。すなわち、都市計画による街づくりではなく、個人の自由な住宅建設、土地会社などの自由な宅地造成が以前から行われ、統制並びに都市計画がおくれたため、学校用地の取得が困難となったこと、住宅の増加する地帯も個人の自由選択によって、確実な把握が難しかったことなどが挙げられる。
他市町の場合は、公的な規制と団地計画により、増加地帯並びに増加数が判明するけれども、亀田の場合は個人的な建築が主体となっていた。