明治新政により北海道に開拓使庁が設置され、町村統治制度として、各町村の支配に着手することになった。政府は人民に対しての支配を確立するため、明治四年に戸籍法を制定し、戸籍区を定め、町村規模の拡大を図り、戸長を設置することにした。
明治五年、函館市街は三区に編成され、翌年五月、函館支庁管内の東部四郡(山越、亀田、上磯、茅部)の大小区画を設定し、村方名主を廃して副戸長とし、年寄、百姓代などを廃して村用掛とすることになった。自治制度の成立していなかった当時としては、政府が新たに町村統治制度をつくり出したわけである。
明治二十一年、市制・町村制の施行により、大規模な町村合併を強行することになり、「十分の実力を有せざる町村は仮令其承諾なきも他の町村に合併し、又は数箇相合して新町村を造成せざる可からず。」(市町村制理由)にみられるように、国政委任事務を僅少な財源で遂行させるには、従来の村では維持できないことであった。
七万余の町村は、やがて約五分の一の一万三、三八四に減少したことによっても、その統治方法の徹底していることがわかるが、半面、旧村の区域を越えた土地集積、あるいは商品流通などが起こり、経済圏の拡大によって、新町村の成立を可能ならしめる点もあった。(『新北海道史』による)
区、一・二級町村制の制定と、その展開が長年継続し、やがて自治制が行われるようになり、現代に至っても、議会による議決を必要とはするが、「町村合併促進法」「新市町村建設促進法」「市の合併の特例に関する法律」「市町村の合併の特例に関する法律」などが制定され、合併の促進が行われてきた。