当時の亀田村は『町村別戸口表』(伊藤鋳之助)によると、
人口 四、五八八人 合併人口 二、九三八人
戸数 五六三戸 合併戸数 二六五戸
前記の『函館区史』によると
合併人口 二、二二七人、戸数 三四四戸
『亀田村郷土誌』によると
合併戸数 三六九戸
と三者とも相違しているが、全体の戸口を伊藤鋳之助の調査に基づくと、合併の戸数および人口は、共に半分以上と考えてよいと思う。
特に問題となる点は面積である。合併によって、四六万四、九一六坪増加したと記されているが、これはあまりにも僅少であって、『新区域函館地番明細図・函館新区域大字亀田村』(明治三三年五月発行)『最近調査函館土地明細台帳』(明治四二年)により概算しても二〇〇万坪以上であると思う。
『函館の履歴書』(元木省吾)には、次のように述べている。
「何んと言っても、函館が大拡張したのは、明治三十二年九月に亀田村の中(中略)を函館区に合併した(ことである)。(中略)大体は新川以東の地区と、万代・宮前・吉川・北浜町から北部の区域である。面積三四万七千坪余、三四四戸、二、二二七人を増加した。」とあり、面積は二〇〇万坪をはるかに超えている。
昭和二十四年四月に合併した港地域でさえ、その面積二九万三、七〇〇坪である。従って四六万余坪は、合併した地域の一部の面積ではなかろうか。
村別戸口表 明治31年~35年
亀田村は合併後、現在の本町、富岡、昭和、港(昭和二十四年合併前も含める)、中道の一部となり、面積においては約半分を割愛したことになる。
[合併略図]
函館市が昭和六年町名改正の際、大字亀田村の十九字が、万代町、新川町、松川町、宮前町、吉川町、北浜町、追分町 亀田町、八幡町、白鳥町、大川町、田家町、高盛町、砂山町、金堀町、堀川町、的場町、中島町、千代ヶ岱町、時任町、人見町、乃木町、梁川町、本町、杉並町、松陰町、柏木町、五稜郭町、柳町、川原町の三〇か町におよぶ広範囲な面積であった。
以上によって、亀田村の一部というよりは、「亀田村のおよそ二分の一」と考えてもよいと思う。
函館区との合併は、官制によるものであり、亀田村の村政は、六か村の戸長役場において協力すべき問題となった。函館区を重点的に把握した区制実施に当って、亀田村は戸長役場、亀田小学校、亀田八幡宮および五稜郭を中心とした一帯を失い、函館区は面積を倍増した形になり、発展への道を歩むことになった。