解題

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文久三歳癸閏十月吉祥日 御借米覚帳(抄)


文久三歳癸閏十月吉祥日 御借米覚帳(抄)


文久三歳癸閏十月吉祥日 御借米覚帳(抄)


文久三歳癸閏十月吉祥日 御借米覚帳(抄)

 表表紙に「文久三歳 御借米覚帳 癸閏十月吉祥日」、裏表紙に「千靏萬亀 上山村名主三之丞」と書かれた和綴の横帳簿である。文久三年から明治十三年まで、主として借用米と借用金について記載してある。
 内容はほとんど同様なものであるため、全文を掲げず、慶応年間の分までにとどめることにした。
 上山村の村人たちが、農業経営に当って毎年米や金子を奉行所から借用した覚え書きであって、各人の借高がていねいに記入されている。組頭が代表者となって取りまとめ、米一俵から三俵、中には一斗、二斗というものもあり、その金高を合計して支払っていた。支払については一回で完納ということは困難であったようで、二回程度に分納していた。
 借用米は普通十二月が多く、各家庭において一俵あるいは二俵の米を用意して正月に備え、また春までの大切な食糧としたものであろう。当時の収穫物は主として粟、稗、蕎麦、大豆であり、米は貴重な食物であった。従って毎日の主食は米の中に粟や稗などを多く混ぜたものであった。
 御年貢米の拝借覚も記されているが、後年名主となった人たちも、それぞれ上納について金高、石高、期日を明細に書き記している。
 「村々貸付米石代取立控帳」(道行政資料課蔵)、(明治二巳年十二月貸渡)には次のように記されている。
 
  玄米弐拾四石四斗
   此代金弐百弐拾三円四拾七銭壱厘五毛
   一金七拾弐円拾六銭九厘    神山村
    外金百五拾壱円三拾銭弐厘二毛 明治三年より同七年迄民事課ニテ取立納済分
    元年分納不足
     金五円拾弐銭七厘  元年十二月十九日納
 
 借用米については、明治になってからも引き続き行われ、農民の生活にとって重要な役割りを果たしていた。神山村の例をとっても、返済が意のままにならず、分納することが普通であり、何か年間かにわたってようやく完納するような状態であった。
 明治二年からは米の外に「御金貸方覚」として、借主と請人連名で一両から十両程度借金していた。明治八年からは「円」の単位になっている。
 帳簿の中に「御開発」の項目があり、熊治郎(亀谷)が田一町歩を開発したことが記されているが、これは「中嶋辰三郎様被仰付候」とあるように、開発に必要な経費として、金十両を拝借したことについて、百姓代、年寄、名主連名でこれを証明している。中嶋辰三郎は安政年間箱館地方の諸村を巡回して、農事の指導を行い、開墾を奨励し、新開町歩に応じて官金を貸与した。熊治郎はこれに従って開発に努力したものである。
 名主三之丞(越田、文政六年七月二十五日生)は三之丈ともいい、代々三之丞を襲名していたようである。弟の竹蔵(天保二年一月二日生)も明治初年に名主となり、村の発展のため尽力した。
 本書は神山町の丸山金次郎(昭和五十一年死去)が所有していたものである。同人は農業経営のかたわら長年月にわたって郷土史の研究を続け、多くの文献を集めるとともに、本人自らの研究によるノートも数冊にのぼり、博覧強記であり、話術も巧みであった。亀田市文化財調査委員などを務めた。