これまでみてきたように、銭亀沢地区の遺跡立地に類似する場所としては、海岸段丘上に遺跡の広がりをみせる函館山麓の東側がある。ここでは、縄文時代早期から前期初頭頃の時期が主体となり、後期や晩期などの遺跡が点在するように、ほとんどが海退期にあたる比較的寒冷な気候のもとに生活が営まれていたとみられる。これに対して、常盤川と石川、さらには亀田川流域の河岸段丘上では、縄文時代前期後半から中期の集落跡が多く存在しているように、どちらかというと海進期の温暖な気候の時期の遺跡が主体となっている。また、これらの中間にある松倉川およびその支流域では、比較的両方の様相を含んでいるような傾向にある。
おそらく、縄文時代早期頃の集団の人びとは、海面低下によって存在したとみられる前浜などを足掛かりにして、海岸線に近い場所や小河川を遡った海岸段丘上に居住地を求めたものと考えられる。この後、海水面の上昇により前浜などが消滅し、海岸段丘の急崖などが支障となったことで、やや内陸部の河岸段丘上に移動するようになり、安定した集落を形成したものと思われる。そして、再び後期から晩期の海退時期になると、再度海岸段丘など早期頃の遺跡が立地したのと同様な場所に、活動の拠点を移していたのではないだろうか。この結果、縄文時代早期から前期前半頃の集落が構成される場所においては、その後の前期後半から中期にかけての集落の立地と重複することがほとんどなくなったのではないだろうか。このことからみて、函館市内における縄文、続縄文、擦文の各時代の集団は、選択した活動の拠点がそれぞれ、気候による自然地形の変化などに大きく影響されていた可能性が高い。そして、それぞれの気候に則した動植物などの食料を獲得するとともに、定住する場所などを決定していったものと考えられる。