銭亀宮の川沿いの台地縁に連なりをみせている早期末頃の集落跡は、おそらくごく短期間のものと考えられ、同一の場所には繰り返し生活することが少なかったものとみられる。なお、同様な集落跡はそれほど多く確認はされていないが、わずかに同一丘陵上では東隣りの水系にあたるムジナ川沿いの石倉貝塚にあり、他には西側の函館空港第1地点にも存在していたようである。また、汐泊川流域東側の丘陵上の豊原2遺跡(『豊原2遺跡』函館市教育委員会一九九四)にも、同様な集落が形成されていたようである。これらのことから、この時期の集団は小さな単位で、水系沿いを転々と渡り住んでいたことはほぼ間違いないところと考えられる。
前期初頭頃に属する尖底・丸底土器の春日町系のグループは、長方形で壁際に柱穴が整然と配列する竪穴住居が特徴である。規模的には小集団単位とみられ、存在が確認されている中野A遺跡、石倉貝塚、豊原1遺跡などでは、一から二軒の住居で構成されているようである。