下北地方との交流

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 縄文時代早期頃の大集落が形成されていた函館空港遺跡群の文化の多くは、東北地方北部に存在していた人びとが海峡を渡って伝えた可能性が高い。しかしながら、津軽海峡の海流や渡航ルートから、適地とみられる津軽半島の先端部周辺には、この時期に相当する遺跡はほとんどみられない。どちらかというと、下北半島の東側先端部で太平洋に面した場所に集中する傾向にあり、中野A・B遺跡から出土した土器の型式名である、物見台式、吹切沢式(住吉町式に並行)、ムシリⅠ式などの名称の基となった遺跡が存在する。このことからみて、おそらくこれら本州北端部の集団は、海峡を挟んだ対岸に見える渡島半島南端部との交流や交易を行うために、渡航したものと考えられる。そして、食料供給や何らかの産物の獲得のため、函館市東部の海岸線沿いの台地に集落を形成したのではないだろうか。