志苔館跡の発掘調査

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 郭内および郭外から検出された遺構は、建物七、柱穴群一、溝状遺構二一、柱穴列八、竪穴様遺構四、ピット(土壙)七、井戸址、門跡二、橋脚二、濠址四、土橋、土塁などである。その郭内遺構の概要と変遷を示すと図1・3・2のようになる。このように、その遺構発掘調査の結果、志苔館は、一四世紀末期に構築され、それが一五世紀から一六世紀と変遷していったことが確認される。

図1・3・2 郭内遺構変遷想定図(『発掘調査報告書』より)

 一方、発掘調査により出土した遺物は、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品、自然礫などであったという。それぞれの遺物の時代規定などについても『発掘調査報告書』に詳しいのでここでは略すが、昭和五十八年度から三年間にわたる発掘調査により、「志苔館」は、まず一四世紀末期に第一期の築造がなされたことが、その遺構・遺物によって裏付けられたのである。
 その『発掘調査報告書』は、中世の「志苔館」のたたずまいが彷彿されるように、次のように結んでいる。
 (前略)構築当初の館跡は、西側に外柵を設け、その中央に門があり、薬研型の二重濠が掘られ、そこに橋が架かり入口へ通ずる構造であった。また、郭内の四方には土塁が築かれ、郭外の北および南側にも濠が巡っていて、郭内には七尺基本単位の建物跡、柵列、小屋、便益施設、井戸等が設置されていた状況が明らかとなった。この後は、郭内および郭外ともに造り替えられ、館跡が事実上廃止になったとされる十六世紀以降は、郭内には小さな建物跡が一棟残され、郭外へ通ずる橋は土橋と代わり、外柵は埋められて土塁が築かれている現在の状況へと変化していったことが推定される。
 この志苔館跡の中世城郭としての軍事的特性について、志苔館の縄張図を実際に作製した八巻孝夫は、次のように説いている。
 このようにこの志苔館は、極めて防衛的に発達した縄張を持つ。とりわけ一期(十四世紀末期~十五世紀初頭を指す・著者)二期(十五世紀中期~後半を指す・著者)の虎口の作り方は極めて発達した形式を示している(中略)。これは長禄頃は、東部方面のアイヌ民族の勢いが強く、早いうちに陥落したと思われる戸井館を除くと、いわばアイヌ民族との境目にあるという特別な危機感が、こうした強固な虎口構造をもたらした理由かもしれない。また特に築城の最新技術を投入した背景は、小林氏の出自、つまり本州内の勢力とのつながりや、経済基盤など統合的に考えていかなければならないだろう。
                                (「北海道の館」『中世城郭研究』)
 志苔館が東部アイヌとの境目に位置していることと、築城の背景には本州内の勢力とのつながりが想定されるという八巻氏の指摘は、前の津軽安藤氏と小林氏とのかかわりを補強するものとして、有益である。
 ともあれ、一四世紀末期、「渡党」に出自する小林氏は、自らの生活の場でもあり軍事的な防衛の場でもある志苔館を築造した。この第一期築造に当たり、港湾と館の繁栄と安泰を祈願して莫大な古銭が埋納された。「志海苔古銭」の埋納である。