では、漁業が第一の生業である近接する地域でこのように土地の所有のしかたが違うのはなぜであろうか。
まず大きな理由として考えられるのは漁の種類の違いであろう。銭亀沢地域では昆布漁を主とするため、当然それを干す昆布場が必要となる。夏の間、収穫した昆布を干した後、家の中で加工をするような個人あるいは家族単位の漁には、それぞれが宅地の前浜に昆布場を所有するのが便利で、自然なことであろう。逆に鰯漁の場合には網元は地曳網が使用でき、揚がった鰯をゆでるための釜場などの施設を設けられる広い海産干場を必要とする。しかし、鰯漁に労力を提供する一般の漁民は、出来上った粕玉を分け前として与えられるため、特に海産干場を必要とはしなかったのではないだろうか。
実際、現在の志海苔町、古川町、石崎町あたりでは、昭和十五(一九四〇)年頃まで鰯漁がおこなわれていたようである。網元のおこなう漁に若い衆が雇われ、獲れた鰯を釜でゆでて粕玉を作ると、網元は三分を取り分とし、残りの七分を若い衆が均等に分け(石崎の場合は共同出資で漁をおこない、粕玉は漁に携わったものが均等に分けた)、持ちかえって干したということである(木村石雄、倉部善太郎談)。
また、松前や福島地域の漁業は江差以北への追鯡や函館における昆布取りの出稼漁が主だったものであったため、前浜に個々の海産干場をもつ必要性はなかったものと思われる。地租創定の際にこの地域の漁民が海産干場の共同所有を願い出た文書にみえるように、その時々で使用の調整をすればことたりたということであろう。