明治四十年に「樺太西海岸特許漁業者大会」が真岡で開かれたが、二九名の来会者のなかに工藤福松の名前があがっているのである(明治四十年七月二十日付「小樽新聞」)。この大会に参加したということは、免許を受けた漁業者だったということを意味する。
また、明治四十三年に「真岡支庁管内水産品評会」がおこなわれたが、ここでも工藤福松の名前をみることができる(「樺太真岡支庁管内水産品評会報告書」市立函館図書館蔵)。彼はこの時「野田寒(野田町)委員部」の委員の一人になっていた。
そして、工藤はこの品評会において、鰊粕で「二等」、胴鰊で「三等」、そして鰊鯑で「褒状」を得ているのである。その漁場は「美多良」と「多蘭泊」[カリーニノ]と記されているが、出品している産物からして、鰊を主力にした漁場であったことがわかる。
工藤がどうして漁場を経営できたかといえば、漁場主から漁場を借り受けることに成功したからである。登録された漁業権者と実際の営業者が一致しないことは、珍しいことではなく、賃貸や転売はしばしばおこなわれたという。工藤は西海岸の鰊漁場については熟知していたので、戦後も機敏に機会をとらえて漁場経営を続行できたのであろう。引き続き銭亀沢村からの出稼者も雇用されたと思われる。
ところで、工藤福松が経営していた漁場はこれだけではなかった。市立函館図書館にある小熊家の文書によれば、工藤福松と福田松之助は戦後も密接な関係があり、小熊幸一郎がかれらに出資をしていたことが記されている。出資とはすなわち仕込である。
小熊はいつから工藤と関係を持つようになったのだろうか。日露戦争中の小熊の密漁船が、はたして工藤とかかわりがあったのかどうか非常に興味深い点である。しかし図書館が所蔵する小熊の資料は明治四十年以降のものであるため、それを知ることはできない。
図1・5・2 樺太南部の地図
(『樺太連盟四十年史』所収「樺太全図」より作成)
最初に工藤に言及されているのは、「明治四拾五年度営業方針」(「事業方針録」)の次の記載である。
一 漁業出資部ハ四十四年度通リ樺太西海岸一九二号小杉正次郎一九五号工藤福松一九九号福田松之助ノ三名
ここにある一九五号は「小霜」[セルゲーヴォ]といって、先の美多良のすぐ隣の漁場であり、もともとは桂久蔵の優先漁場であった。桂は明治三十二年以来保持していた美多良も小霜も手放してしまったようだ。美多良は角田慶太郎の名義になり、小霜は小熊幸一郎名義の漁場となったわけであるが、実際にそれらを経営したのは工藤福松ということになる。美多良のほうの経過は不明だが、小霜は小熊の仕込を受けながら大正三(一九一四)年まで経営を続行したのである。
大正四年から、小熊は工藤との関係を断ったのだが、それには次のような経緯があった。
一 福田松之助ギ重患故万一ノ事アルト工藤福松ギ一人ニテハ同人ハ無筆人物ナルニ加フルニ人物ガ頗ル横着ナルニ亦側ニ危険人物ガ付キ居ル故福田ニ万一ノ事ガアルト跡ノ取引ガ至ツテ危険故昨年末ノ精算承認書始メ重要書類ニハ全部同人ニ拇印ヲサセ置キ可被成候法学者ノ意見故注意ノ上至急取計ヒ可致事
(大正元年「備忘」)
『北海道立志編』では苦労人として描かれた工藤であったが、小熊の目には信頼にあたいする人物とはうつっていなかった。そのため、工藤のパートナーである福田松之助に万一があった場合を懸念したのである。福田の病気は回復せず、大正二年三月に死亡した。大正三年の営業方針は前年同様で、樺太西海岸の仕込漁場も三か所とされている。福田が亡くなったものの、まずは工藤に機会を与えたというところであろうか。
しかし「大正四年度営業方針」によれば、これまで、工藤・福田仕込漁場としていた三か所のうち、一つは日魯漁業に売却、あとの二つは小熊の直営漁場とすることに変更されたのであった。その理由は連年の不漁と述べられているが、工藤に対する不信の念もあったのではないだろうか。これ以降、工藤の樺太における活動は不詳である。
なお北海道庁が保存する「免許漁業原簿」によれば、工藤は銭亀沢で鰯の地曳網漁をおこなっていた。しかし、その経営内容などを伝える資料はみあたらない。