中宮家の樺太進出

85 ~ 88 / 521ページ
 志海苔の中宮家は、初代亀吉(天保十二年生まれ)が行商の傍ら呉服店を開き基礎を築いた。明治二十三年から漁業にも着手したが、ここでは樺太とのかかわりを述べる。
 日露戦争後、樺太の優先漁場以外は競売にかけられたことは前にふれたが、これを機に中宮家も樺太へ進出した。当時三〇歳の中宮六蔵(大正五年に先代の亀吉を襲名)が入札で獲得した漁場は亜庭[アニヴァ]湾沿いにあり、当初は無名だったが、後に酔越と称された場所である(図1・5・3参照)。明治三十九年十月二十六日付けで樺太民政署民政長官熊谷喜一郎から交付された漁業特許証には、漁獲物の種類として、鮭、鱒、鰊のいわゆる三大魚族が記されてある。建網一統、漁業料金は七八五円であった。

表1・5・1 酔越漁場の実績  (単位:石)

            大正2年「免許漁場新旧漁業料并累年収獲高」
            大正5、8、11年「改正漁業料並最近三ヶ年収獲高」
            大正14、昭和3、6年「改正漁業税並最近三ヶ年収獲高」
            昭和11、14年「鰊鱒鮭最近三ヶ年収獲高並漁業税」
             注)空白は不明
 
 この漁場の実績を表1・5・1に示した。鰊建網は大正三年頃から二か統になり、大正十三年からは、三か統へと拡大していた。この頃から、亜庭湾では鰊がよく獲れるようになってきたらしい。数字をみても昭和初期には、豊漁が続いたことがわかる。この当時のことを、現在も志海苔に住んでいる中宮亀吉の孫の文子(大正十二年生まれ)が記憶している。
 すでに亀吉は亡くなり、文子の父親が経営にあたっていたが、豊漁の時には、漁期に一度樺太からもどってきて、お酒やお菓子などを大量に仕込んで、またもどったものだという。その頃には漁場に行くといっても漁場主はもちろん、漁夫も鉄道で函館から稚内まで行き、そこから連絡船で樺太に渡ったのだそうだ。樺太に土地建物を所有し、船や漁具一切があるから、現地の番屋には、人を雇って住まわせ、越冬をさせていたようである。
 漁場を切り揚げて帰ってくる時の土産は、身欠鰊や数の子で、これを冬の間に食べるのが楽しみだったという。身欠鰊は脂がのっていて、現在流通している物とは比べものにならなかったと語ってくれた。
 ところで、中宮家には「大正六年第一月以降 漁場勘定元帳」という帳簿が伝えられている。これには、樺太の漁場の収支が記載されており、経営状況を知ることができる。またこれで新たにわかったことは、酔越のほかに、佐々木平次郎所有の「洞舟」[フニィヴォ]漁場を賃借して経営していたことである(図1・5・3参照)。
 洞舟漁場は、大正四年まで村上祐兵の名義であり、佐々木と中宮とが契約したのは、同五年からであったのではないかと思われる。したがって、大正六年には酔越の正副網と洞舟の正副網の四か統に携わっていたことになる。ではこの元帳から、経営実態をみてみることにする。
 まず「洞舟」の正網についてみてみると、佐々木平次郎に支払った賃貸料は、三〇二一円となっている。漁夫に渡す前金が三〇人(男二七人、女三人)分で一一〇七円、それに彼らの旅費がおよそ二〇五円である。あとは、漁具や雑貨・食料品費、通信費、運送費、保険料など概算で三四〇〇円の支出があった。これらを合計すれば、おおよそ七七三三円が総支出ということになる。一方、収入をみると五月末あたりから、どんどん生産物(締粕、塩鰊、鰊油など)の売上金が入ってきている。これらは漁場で精算されるか、あるいは船で函館に輸送され、精算されていることがわかる。これに各種の利子なども合計すれば、約一万六七五〇円が総収入となる。したがって計算上では、約九〇〇〇円が純利益とみなせるのである。
 ちなみにこの年の収入には、ほかに「〓佐々木漁業部へ売渡シタル洞舟正網漁船漁具売却代金受入」という項目があり、一五〇〇円の記載がある。古くなった漁船や漁具を売却したのか、それともここでの経営をやめることにしたのだろうか。
 次に洞舟の副網のほうだが、この経営は中宮亀吉、中宮宮之助、中宮安蔵、福沢忠助、川嶋兼蔵の五人の共同経営となっていた。これには決済も記入されていて、総収入が一万二八一九円二四銭一厘、総支出が八二四二円五一銭七厘となっていた。差し引き四五七六円七二銭四厘が純利益である。この分配は、その二分の一の二二八八円三六銭二厘が中宮亀吉で、残りの二分の一をそのほか四人がそれぞれの分担率で分けるというようになっていた。したがって共同経営とはいっても、五人のリスク分担が平等であったわけではない。この副網のほうでも、漁船漁具の佐々木への売却という項目がある。正副両方の漁船漁具を売却したところをみると、中宮はこの年をもって洞舟の経営から撤退したのかもしれない。
 なお大正前期の洞舟の漁獲高は表1・5・2のとおりである。
 では続いて、酔越の漁場をみてみよう。大正六年の正網の帳簿の冒頭には、幹部主任三人として平野柾吉、鈴木仲五郎、高野熊蔵の名前がある。かれらは中宮と同じ志海苔の人たちである。中宮はかれらに前金を渡して、漁夫の雇い入れなどをおこなっていたことが読み取れる。この年は収入が六三七七円三二銭一厘、支出が七四二四円一一銭七厘で、一〇四六円七九銭六厘の欠損が出ている。

表1・5・2 洞舟漁場鰊収獲高  (単位:石)

              大正2年「免許漁場新旧漁業料并累年収獲高」
              大正5、8年「改正漁業料並最近三ヶ年収獲高」
 

図1・5・3 中宮家の漁場の位置
(『樺太連盟四十年史』所収「樺太全図」より作成)

 

中宮亀吉(中宮文子提供)


大正12年竣工の中宮亀吉邸(同上)

 副網には「〓高野福三郎漁場」という名称が記載されている。帳簿から、高野福三郎に貸し付けて賃借料を得ていたものと読み取れる。高野は同じく志海苔の人であった。高野から賃貸料を受け取り、この漁場にかかる漁業税などを支払い残ったものが、中宮の利潤となった。この年の場合、七七〇円六六銭がその差益である。
 以上を総括すれば、大正六年の中宮漁場からは、約一万一〇〇〇円の利益が出た。米一俵が約八円という時代の一万円といえば、相当なものである。それでもこのように利益が出る時はよいが、不漁の時もあるから、四か統を全部自営にしなかったのだろう。
 最後に漁場の収益と漁獲量との関係をみてみよう。先に掲げた表1・5・1と2からわかるとおり、大正六年の場合、洞舟の漁獲量は一二九〇石で酔越は七三〇石である。この漁獲量は正副網の合計と考えられる。もちろんここにあげた帳簿だけで判断はできないが、一網四〇〇石あたりで採算がとれたのではないだろうか。そうしてみると、洞舟と酔越は収益の高い漁場であったといってよい。
 中宮家はその富を土地の集積にあてたようである。第二次世界大戦前は、近隣に広大な土地を有していた。また、文子の話では、大正十二年に婿養子をむかえるにあたって、立派な洋館を建てたそうだ。写真も残っているが、当時の銭亀沢にあっていかに目立ったか容易に推測できる。だが、富をもたらした鰊も昭和六、七年あたりからとれなくなり、中宮家では敗戦を待たずに、漁場を整理して引き揚げてきたということである。
 なお、中宮亀吉は大正六年から樺太建網漁業水産組合連合会の評議員をつとめ、また大正十年から十二年まで樺太亜庭湾建網水産漁業組合の副組長をつとめた。地元の銭亀沢でも鰯の曳網を経営しており、渡島水産会副会長の要職にあった。また大正五年から二期、函館支庁管内選出の北海道会議員もつとめるなど、まさに村の名士であったが、大正十二年暮れに五〇歳の若さで亡くなった。