旧教徒と親交を結んだ人びと

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 こうして旧教徒たちはみんな去っていったが、最後に、中宮亀吉のほかにも、かれらと交流していた人びとがいたことを記しておきたい。
 まず、新聞記者の取材に同行し、通訳をした「山崎」という青年がいる。近所に住んでいてロシア語ができ、なにくれとなくロシア人の世話をやいていた。しかし山崎青年は家庭の都合で移住することになり、「この人を失っては闇の夜」であると書かれている(大正十一年五月三十一日付「函毎」)。これ以上のことはわからないのだが、ロシア語ができたというのは、漁場の通訳でもやっていたからなのであろうか。
 また生活に窮した旧教徒が、樺太へ渡航することになったのは、「税関の木下課長の肝入り」なのであった(大正十四年十一月三日付「函新」)。木下課長は、亜寒帯農業の研究をしていた早稲田大学の小田内通敏講師と協力して、彼らの移住に尽力したのであった。
 「満州」で活躍した長谷川濬と文学史にも名前をとどめる長谷川四郎の兄弟は、旧教徒たちからまさに大きな影響を受けたといっていいだろう。彼らは当時、函館の谷地頭に住んでいたが、団助沢に行ってロシア語を覚えたのだという。妹の玉江は、家中がロシア語でいっぱいだったと語っている。特に濬はロシア語に夢中で、家にもたくさんのロシア人を連れてきたし、団助沢のロシア人はよく黒パンをもってきてくれたそうだ(長谷川玉江「長谷川家の人々と函館」『地域史研究 はこだて』二五号)。
 濬は生涯、ロシア語で暮らしを成り立たせたし、四郎もロシア・ロシア語にかかわる仕事が少なくない。
 函館を出て「満州」に渡った濬は、その地の亡命ロシア人村に住み込み、自らを「マクシム・ニコライウイチ」と名付けて暮らしたこともある。そして、この満州時代にいくつかの文学作品を書き、亡命ロシア人作家バイコフの作品なども翻訳した。このような活躍ぶりの根底には、団助沢での体験があったことはいうまでもない。
 銭亀沢に住み着いた亡命ロシア人に対して、少ないながらも、あたたかい眼差しがあり、共感する人びともいたのである。