明治十三(一八八〇)年、開拓使所管の幌内鉄道手宮・札幌間が開業し、鉱山鉄道である釜石鉄道を除くと国内第三の営業鉄道が北海道に誕生した。これを皮切りに北海道では石炭輸送と内陸部拓殖を主目的とした鉄道敷設が、官鉄・私鉄の手により鉄道国有化の時代まで活発におこなわれていく。
明治二十六年十二月、函館区会所町田代坦之ほか九名の発起人により、函湯鉄道株式会社の発起と鉄道敷設の出願書が逓信省に出された(明治二十八年「鉄道院(省)文書函湯鉄道」交通博物館蔵、以下「函湯鉄道文書」と略)。この鉄道は、函館区と下湯川村間延長三哩五〇鎖(約六キロメートル)、軌間三呎六吋(一〇六七ミリメートル)を、蒸気を動力とするもので、明治二十八年十一月五日に敷設仮免許状が交付された。
また、「創立願」の文面から函湯鉄道は、函館区内と温泉地として活況を呈してきた下湯ノ川村までを結ぶ交通利便を第一の敷設目的に掲げ、さらに下湯ノ川村から続く沿岸漁場などの貨物輸送にも考慮した鉄道であることが読み取れる。また、明治二十八年十二月に提出された「創業総会執行顛末」(前掲「函湯鉄道文書」)の「収支一覧表説明」中で、同鉄道の乗客について「乗客ハ銭亀沢以東沿岸其他鉱山等ヘ往来スル旅客ノ頻繁ナルノミナラス下湯川温泉場へ内外軍艦其他ノ船舶ノ乗込員及内地ヨリ渡来スル旅客ニシテ湯浴ニ来ル者接踵シ即チ是等ノ人員一ヶ年間ノ数ヲ概算スレハ四拾六萬五千四百二十人ノ多キヲ占ムレハ其半数ハ必ラス汽車ノ便ニ拠ル者トス」とある点からも銭亀沢村東部沿岸地域などの旅客、貨物輸送をも意識した最初の本格的な蒸気鉄道の敷設計画であったといえよう。
また、「函湯鉄道株式会社起業目論見書」(前掲「函湯鉄道文書」)の鉄道敷設費の項に「但本線落成ノ上ハ之ヲ峠下村及ヒ臼尻村両地ニ延長ヲ謀ル」とあり、同線開通後、路線は明確に示されていないが、峠下村(現七飯町)および臼尻村(現南茅部町)方面への路線延長も将来的におこなうことも考えられていたようである。
しかし敷設を許可された函湯鉄道は、資金調達面で難行し敷設は順調に進まなかった(『函館市史』通説編第二巻)。その後函館鉄道株式会社と社名を変更し、敷設路線を函館、小樽間、函館、江差間とするなど実現の道を探ったが、いずれもめどはたたず、ついに明治三十一年八月、同鉄道の発起人にも名を連ねていた佐藤祐知が明治二十八年に起こした亀函馬車鉄道株式会社と合併し、函館馬車鉄道株式会社となって、蒸気鉄道は実現されずに終わったのである。