この時期、函館でも市内をはじめ、近郊地域を結ぶ新しい交通機関として自動車を使用するという動きが見られる。大正六年十月十七日付けの「函館新聞」は、「自働車時代 下海岸へも来年は通ずると」という見出しで自動車を廉価な交通機関として位置付けたうえで「下海岸へも通ずる銭亀沢方面でも、一日も早く之れが運用を試みなくては致し方がない…是非此の便利な自働車を使用せねばならぬと、既に夫々計画を立てて居て、来年は雪解け早々、せめて銭亀沢まで往復させる」、下海岸地域をはじめとした各地を結ぶ営業路線が計画されつつあることを報じている。しかし、道路事情はあいかわらず悪いままで自動車の安定した運行にはいまだ堪えられない状況でもあった。
こうした中、大正七年、函館トラック株式会社による貨物運輸が始まり(『新北海道史』第五巻通説四)、また、乗合自動車の運転も旭自動車株式会社が同年十月十日、松風町から湯川村湯尻間を定員六人乗りフォードによって開始されるなど(『市電五十年のあゆみ』)、自動車輸送が本格的に始まってきた。
なお、大正九年一月二十五日付けの「函館日日新聞」によると、大正八年末現在の函館における自動車台数は、賃貸用、乗合用など合計三三台(消防用自動車一台を含む)で、自動車黎明期の道内で一番多かった(表1・6・1)。
この後も自動車は台数を増加させ、それまでの道路輸送上の主力であった馬車などを淘汰していくことになるが、道路整備がそれに追いつかず、東海岸部などそれまでも道路事情が良くなかった地域の交通整備が問題となってくるのである。事実、大正十年二月十六日、前述した湯川村、戸井間の道路改修などを目的として、湯川、銭亀沢、戸井、尻岸内、椴法華五村有志による亀田郡道路改修期成同盟会ができている(大正十年二月十七日付「函日」)。
表1・6・1 大正8年末現在の道内5区別自動車台数
大正9年1月25日付「函館日日新聞」記事より作成
全道で70台となっているが、他地域の台数は除く
函館区の消防用自動車1台は除いて作成