藤野自動車家屋と所有車両(『函館バス20年のあゆみ』)
湯の川戸井間乗合自動車発着表(大正10年12月7日付「函館日日新聞」)
大正十年一月二十九日付けの「函館新聞」には、「湯川、戸井間の自動車運転は不許可となりたる旨報じたるが、右は誤聞にして道庁より函館警察署に再調を命ぜるものにして、調査の結果出願者は民有地を借り受け、道路の狭隘を補い、極力認可を受くる筈なりと」と湯川、戸井間の自動車運転認可に関する記事が載っている。これは大正十年五月、同区間をシボレー車一台で運転開始した水上自動車のことであろう(『函館バス二十年のあゆみ』)。
このように、大正十年前後の時期に自動車が各社により運転されていた。当時の藤野自動車について『函館バス二十年のあゆみ』に、「湯の川戸井間を一日二往復、運行時間は天気の良い日と雨降りの日とで相当の相違があったが約二時間三十分位であったと憶えている、運賃は戸井迄一円二十銭で乗合馬車と大いに競争したものである」と書かれていて、当時の道路状況と自動車と競合して乗合馬車が走っていたことがわかる。また、大正十年十二月七日付け「函館日日新聞」には湯川戸井間乗合自動車部の「湯川戸井間乗合自動車発着表」が掲載されていて、同区間に三往復、湯川、石崎間一往復の乗合自動車が運転され、湯川、戸井間の時刻表上での所要時間が二時間であったことがわかる。
さて、この乗合自動車の料金であるが、当時の函館区内の電車料金と比較して見ても電車料金が大正二年の東雲町、湯川終点まで一一銭、大正八年から湯川線に運転された特等連結車の料金が大門、湯川間片道一七銭(『市電五十年のあゆみ』)であったから値段的には高額であったと言えよう。湯川、戸井間を走る乗合自動車はこの地域初めての近代交通機関であったが、まだ大衆的な交通機関とは成り得なかったと思われる。このことは当時の乗合自動車が定員一〇名程度のもので、運行回数もわずかであることからも推察される。
銭亀沢村にこの乗合自動車の待合所の存在が確認できる資料はないが、聞き取り調査によると、函館市内に所用で出る時は、料金の高い乗合自動車は使わず、徒歩で湯川、あるいは市内まで行くことが戦後まで当たり前だったというから、村内にも待合所があったことがわかる。また、住民にとって乗合自動車は贅沢な交通機関であったともいえるだろう。