昭和期に入ると、函館市民が開通を熱望した長輪線が昭和三(一九二八)年九月十日、長万部、輪西(現東室蘭)間の営業を開始した。
また、改正鉄道敷設法公布により敷設予定線に挙げられた釜谷鉄道をはじめとする道南の四線のうち、上磯、江差間は、大正十三年四月、鉄道省告示第六一号で北海道建設事務所の所管となり、同年六月実測に着手、三工区に分割して昭和二年十月に第一工区である上磯、茂辺地間から起工(『北海道鉄道百年史』中巻)を開始したのをはじめ、釜谷鉄道は鉄道省の昭和三年度調査予定区間の北海道内一八区間の一に「戸井函館間」として挙げられている(昭和三年四月三日付「函毎」)。
昭和三年六月五日、六日付けの「函館新聞」は、函館運輸事務所調査として「函館釜谷線概要」を二回にわけて紹介している。
この調査によると、沿線町村の戸口は、湯ノ川村戸数一〇二〇戸、人口五六〇七人、銭亀沢村戸数九九四戸、人口六二二三人、戸井村戸数一〇一〇戸、人口五九七四人となっており、このほかに、「沿線著名部落の距離、地勢、沿革」などが紹介されている。また、沿線の生産物およびその主要品目の調査結果を挙げ、その取引関係として「湯の川村には函館より電車の便あり、其の他は車馬船舟の便によりて函館市場との間に取引行われ、其の主なる品目を挙ぐれば、移出は主として水産物にして、鯣、塩鰮、昆布、鰮粕、鰮油、移入は概ね日用生活必需品にして、白米、炭薪、縄莚、調味料、日用雑貨類」と記載している。さらに、これらの輸送方法を次のように紹介している。
イ、旅客 湯の川迄は電車、自動車の便ありて至極便利なるも、其の他は多く陸路徒歩に依り稀に不定期の船便に依るものあり交通頗る不便なり
ロ、貨物 湯の川迄は電車と自動車或は車馬に依り甚だ便利なるも、其の他は陸上車馬に依り魚肥昆布の積取期には不定期に発動機船、小蒸汽船を運航するあり、便ならず
以上のような「調査」をもとに、釜谷鉄道線の価値を「沿線一帯は水産物……殊に鰮、海草の豊富以て知られ、之が現在の輸送は前述の如くなり、今本線の開通するあらば之等水産物は当然之に依って大なる利便を得べく地方開発の上に齎すところ少からずと信ず」と主張している。
この記事によって、昭和三年六月には鉄道省札幌鉄道局函館運輸事務所による釜谷鉄道の沿線調査がほぼ終了したことがうかがい知れるが、実際の建設工事にかかわる実測などの調査がおこなわれた形跡は明らかではなく、昭和十年代にはじまる実測着手までなんらの動きもないままに推移するのである。また、この調査でも対岸の下北、大間鉄道との関係および釜谷鉄道の対本州連絡線としての役割については一切触れられていない。