現段階での研究者たちの理解では、道南の地は第四紀が始まる約一八〇万年前までのしばらくの間、すなわち第三紀末(鮮新世)に準平原化作用が続いたため、起伏に乏しく、せいぜい高くても五〇〇メートルに満たない緩やかな斜面を持つ丘陵地が続くような景観であったとされる(yoshikawa,ほか、1981)。ところが、東北日本弧の北部にあたる渡島半島は、とくに第四紀の半ば頃になってから、日本列島のほかの島弧(たとえば西南日本弧、琉球弧など)と同じく、プレートの島弧への潜り込みが強まったため、東西圧縮の力が強まり、地盤運動が活発化したという。すなわち、山地はより高く、低地はより低くなる運動(増起伏運動)の強化であり、一部では活断層として出現した。
現在、渡島半島の主軸山脈(遊楽部岳一二七七メートル、乙部岳一〇一七メートル)や、そこから分岐した亀田半島(一一六七メートル)および松前半島(大千軒岳一〇七二メートル)がいずれも一〇〇〇メートル以上の高度を持って、たいそう山がちであるのも、また一方で、函館平野が、西縁に活断層を伴いながら、厚さ六〇〇メートル以上の堆積層を持つのも、こうした島弧の増起伏運動、すなわちここ一八〇万年間の隆起運動、沈降運動の反映である。それらの動きの中で函館市街や銭亀沢は長く隆起を継続してきた部分とされている。