銭亀沢の四万年前頃の植生・気候環境

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 豊原にある土採り場の露頭壁面から、紀藤ほか(1993)は、銭亀沢火砕流に覆われた泥炭層を見い出した(図2・1・10)。場所は標高六〇メートルの日吉町Ⅰ面相当の海岸段丘面である。露頭の最下部は厚さ一〇メートル以上に及ぶ淘汰の良い砂層で、砂管のような生痕化石も見られ、海成層である。この層を不整合に覆って赤褐色のローム層、灰色粘土層が重なり、その上に木材を含む泥炭層がある。この泥炭層はさらに厚い「銭亀沢火砕流堆積物」と表層の土壌に覆われている。泥炭層中の材を放射性炭素による年代測定を行ったところ、約三万八〇〇〇年以上前(>37,800y.B.P.(N-5757) ・・紀元一九五〇年を基準としてさかのぼる年代表記法で、幾らかの測定誤差を伴う)という従前の年代推定と矛盾しない結果を得た。
 泥炭層から五センチ間隔で採取した四層準の試料についての花粉分析結果は、いずれも同じような花粉の出現傾向を示した。針葉樹のトウヒ属(エゾマツなど)が全体の六〇パーセント以上を占め、次に同じく針葉樹のモミ属(トドマツなど)が全体の二〇パーセント弱を占めた。この他、マツ属(ハイマツなど)が一定の割合を示し、カラマツ属(グイマツなど)も中位の層準に数パーセント程度出現する。落葉広葉樹類の出現率は低い。
 このように、針葉樹林中心でトウヒ属を主とし、モミ属やマツ属を伴い、ときにカラマツ属も自生する植生は、亜寒帯から寒帯のそれを示すもので、これが今から四万年を少し遡ったころの銭亀沢の環境であったらしい。

図2・1・10 豊原町および戸井町小安における銭亀沢火砕流堆積物直下、同堆積物上の花粉化石ダイアグラム(紀藤ほか、1993より編集)