氷期が終了した後の温暖化と海面上昇は急速であったといわれる。最終氷期最盛期の二万年前をわずかに過ぎ、一万八〇〇〇年前から一万年前の間の海面上昇はとくに著しかった。一〇〇年で一メートルを上回るような海面上昇が長く続いたので、当時の海辺に住んでいた先史人たちは、一生の間に海域が広がり迫るのを目の当たりにしたことであろう。その後、海面は六〇〇〇年前頃にほぼ安定化した。当時の函館における海面高度は、高くとも二メートル程度(太田ほか、1994・紀藤・小野、1985)とみられているものの、それでも海面は大きく内陸に入り込み、最下位の海岸段丘である函館面の麓にまで及んで明瞭な海食崖を作った。道営大川団地や大川町の運動公園の東側を限る崖線もこの一部で、北方向に亀田本町と富岡町を分ける崖線に続き、さらに函館陸運支局北の崖から、函館流通団地西側の崖を経て、西桔梗町にある三育小学校の西を限る崖まで続いていく。このほか、松倉川、鮫川にも河口から一、二キロメートルほど、海が差し込んだとみられるし、汐
泊川でも少なくとも河口の古川町一帯が明瞭な入り江であった。従って、当時、函館に砂州は海面上にほとんど出ていなかっとみた方がよい。桔梗町西の大野平野の沖積地下からは、五、六〇〇〇年前の年代を示す海産貝化石が得られており、この付近にまで海域が広がっていた。貝類の幾つかの種(ウネナシトマヤガイ、シラギクガイ)などは暖地性で、現在は函館湾に生息しないことから、幾分、現在より暖かな気候が想定されている(太田ほか、1994)。この時期、すなわち縄文前期にかかる市内の諸集落遺跡、たとえば函館空港第四地点遺跡、鶴野遺跡、西桔梗E遺跡、
サイベ沢遺跡などの縄文人たちは、現在とはかなり異なり、台地際まで海の差し込んだ入り江に富む環境の中で生活していたことであろう。
図2・1・14 約6千年前(縄文海進期)の函館周辺の地形環境