調査地と調査の概要

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 この場所は函館市街から東へ一〇キロメートルほどのところにあり、汐川の東側(北緯四一度四六分、東経一四〇度五二分)に位置する(図2・4・1)。調査当初、その場所は海岸を通る国道二七八号から中学校まで約七〇〇メートル、そこから東北東に約五〇〇メートルの線で囲んだ二〇ヘクタールに及ぶ広さの土地がすべてアシ原を形成していた。
 現在この場所でアシ原が残っているのは、古川町の松田一郎が所有する土地(約五ヘクタール)だけで、他は土砂により埋め立てられ、一部が資材置き場に残りが裸地と化している。土地造成は昭和五十年代半ばからおこなわれたものである。実際の調査地(A地点)は、昭和五十八、九年の二年間は、函館市立銭亀沢中学校から東に三〇〇メートルほどに入ったところである(A-1)(現在はすでにアシ原は消滅し荒れ地になっている)。昭和六十二(一九八七)年以降からは、松田一郎所有の土地で調査をおこなった(A-2)。この土地は、東側の斜面に小川が流れ、斜面には広葉樹林が茂っている。ただ、斜面上に、芋畑があるため、昭和六十(一九八五)年以降大雨が降るたびに、土砂が流れ込むようになり、崖側のアシ原の生育は悪化する一方である。
 さらに、平成七(一九九五)年に豊原町の湿原内のアシ原(B地点)を利用して調査をおこなった。この場所は土谷石崎鉱山が閉山し、その跡地が利用されずに沼地化したものである。
 ところで、鳥類標識調査とは、野鳥をカスミ網などにより捕獲し、種類判別後、「KANKYOCHO TOKYO JAPAN」と型番および通し番号の刻印してある金属製の環(リングとも言う)を足に装着して、必要に応じて、性別、年齢を調べ、さらに、外部の部位や体重を計測して放鳥したものである。そして、それらの鳥が別の場所で回収されることにより、各鳥類の渡りの経路を解明することを主目的とする。さらに、それに付随して得られる放鳥時および回収時に蓄積された資料を解析することにより、環境別の構成鳥種、各鳥種別の性別構成、年齢構成、外部形態の解明にも役立つ。
 調査は、古川町では昭和五十八(一九八三)年十月から翌年の十月の二シーズン、昭和六十二年九月から平成三(一九九一)年九月の九シーズンを要しておこなった。さらに、豊原町では平成七年の十月の三日間に鳥類標識調査をおこなった。年度ごとの調査日数の内訳は表2・4・1に示した。
 ところでここでは、新放鳥個体、つまり、リングをまだ付けていない初めて捕獲した個体しか扱ってはいない。すでにリングを付けた、一度捕獲された個体については除外した。このため、個体数の増減は、その地域の鳥の数にほぼ関連する。ただし、標識調査以外で記録された鳥類については後に触れるが、この調査で生息するすべての種類が記録される訳ではない。

図2・4・1 調査位置図(A:古川町、B:豊原町)


表2・4・1 函館市古川町と豊原町における秋期の鳥類標識調査結果(1983年~1995年)