この漁業は、昭和三年に、隣の戸井村小安の漁民、島本石五郎が考案したもので、翌年から本格的におこなわれるようになった。従来の地曳網漁業では多数の漁夫を使用したが、その欠点を是正して生産性を高めると同時に、従業員を減らして費用の削減を図り、収益性の向上を図った。操業結果は上々で、戸井村内では、昭和五年に九か統、六年に一九か統、そして昭和八年には四三か統に増加して、近隣町村にも急速に普及した。
銭亀沢村では、石崎が昭和六年に八か統、七年に一二か統、そして八年には一三か統に増加し、銭亀沢では、昭和六、七年が八か統で、八年には九か統に増加した。
使用漁船は三隻で、起船一隻(保津船‥幅七尺五寸、長さ七尋、一〇人乗り)、袋船一隻(保津船‥幅六尺、長さ六尋、四人乗り)、磯船一隻(幅五尺五寸、長さ四尋半、三人乗り)が使われた。
漁期は十一月中旬から十二月下旬までで、漁場は水深一三尋以下の地先海面で、操業には一七人の漁夫が従事した。
経営方法は、戸井村と同様の歩合制度でおこなわれていたようだが、それによると、加工された魚粕を漁業主三分、漁夫七分の割合で配分し、燃料、釜焚賃、馬車賃、樺皮代、「カーバイト」、缶函代などは魚油の代価より引き、残額があれば歩合に応じて配分した。そしてこれらの経費に不足がある時は、漁業主、漁夫は、それぞれ歩合に応じて分担した。また公課、網修繕費は漁業主持ちであった。歩合の配当は、現物(玉粕)で分配して、玉粕の乾燥は各人がおこなった。なお漁夫間の玉粕の配分は、船頭が一・三分、下船頭が一・三分、一般漁夫〇・一分の割合で分配された。
従来の地曳網漁業と比較すると、人員では、地曳網が一か統四七、八人を要したものが、この流敷網漁業では、一二、三人ないしは一六、七人でよく、その結果、一人当たりの配当は、地曳網に比較して約倍額になり、漁夫の中には、地曳網からこの漁業に転向する者が現れるようになったという。