〈鰯揚繰(あぐり)網漁業〉

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 この漁業の着業数は、昭和五年から七年には二ないし三か統、八年は五か統である。漁場条件が地曳網漁業や定置網漁業に不向きな根崎でおこなわれていた。
 使用漁船は一か統九隻で、網船二隻(川崎船‥幅九尺から九尺五寸、長さ八尋二尺、一隻一六人乗り、櫓六挺立)、枠船四隻(保津船‥幅七尺五寸から八寸、長さ七尋から七尋半、二人乗り)、魚見船一隻(中船‥幅三尺七寸、三人乗り)、沖揚船二隻(胴海船または保津船、幅六尺、長さ六尋、六、七人乗り)が使われた。
 従業員は五五人。漁期は十一月十五日から一月十五日までで、盛漁期は十月五日頃から二十五日までであった。
 漁場は、石崎より湯川の間で、松倉川から汐川の沖合が好漁場とされた。操業時間は夜間が七割を占め、漁獲物は鰯のほかに鯖、福来(ふくらぎ)などが混獲された。漁獲量は、良い年で一か統で二〇〇〇石、平年では一〇〇〇石から一五〇〇石を水揚げした。
 経営は歩合制度で、現物(玉粕)が配分された。まず製品生産額から製造費を差し引き、それを原資として漁場主が三分五厘、漁夫が六分五厘を受け取った。税金は歩合の率で両者が分担し、経費は全額漁夫が負担し、漁具、材料、修繕費は網主持ちとされた。