この時期の出稼ぎ先をみると、表3・1・17にみられるように、昭和三十年に出稼ぎ件数の約六〇パーセントを占めていた春鰊漁業の出稼ぎが、三十三年には七件に激減した。これに代わって登場した北洋鮭・鱒漁業への出稼ぎが、年々増加して、三十三年には三六二件に達したが、失われた就労の機会は埋められなかった。
このほか目に付く変化としては、水産加工の出稼ぎが三五七件に増加していることである。この水産加工の出稼ぎは、主に婦女子によるもので、根室、釧路、網走地方の水産缶詰、その他水産加工場への出稼ぎで、その期間は三月から十月であった。表示したその他出稼ぎには、道内の土木工事、炭鉱夫、杣夫などが含まれていた。
このように、戦後の出稼ぎ事情は一変し、春鰊漁場という最大の出稼ぎ場を失った結果、出稼件数は、昭和三十年以後の四年間に一四九七件から七九六件とほぼ半減し、出稼ぎ先も大きく変化した。こうした状況の下で、再開された北洋鮭・鱒漁業は、この村の漁民にとっては、またとない働き場所になったのである。
表3・1・17 銭亀沢村の出稼ぎ先
函館公共職業安定所、村役場各資料および「母船作業員の母村」・近藤康雄編『北洋漁業の経済構造』により作成