イワシ漁一か統あたりの人数は二〇人から三〇人、大規模なものでは四〇人から五〇人になった。
漁師はブカタ(歩方)またはヤトイ(雇)として網主である親方に雇用された。ブカタの場合は、網主である親方が、網、船、番屋、イワシを煮る釜その他の諸道具を負担し、漁師(若い衆)が自分の食事、イワシを煮るマキ、網を干す杭、船をすべらすゴロなどを用意した。水揚げしたイワシは粕に加工し、これを親方三割、ブカタ七割で分配した。同時にとれるイワシ油はこれを売った金を、購入したマキ代などの諸経費にあてた。分配されたイワシ粕のタマは個人個人が年が明けてから粕干しした。
ヤトイは賃雇いのことで、本州からの出稼ぎ者に多くみられ、主に戸井方面に多かった。石崎の人が戸井方面でイワシ場を経営した。シモの方はヤトイだけの場合が多かった。汐首崎から向こう(東方向)はヤトイ(ヤドイ)制であった。青森県の南部地方(南部衆)、秋田県(秋田衆)などからのヤトイもいたが、道内の島牧、乙部、熊石方面からのヤトイが多かった。
石崎はブカタが主であったが、人手が足りないときには親方がヤトイを何人か雇った。ヤトイは四、五人おり、親方が雇うが支払いは若い衆の分七分の中から親方に入る。そのかわり、ヤトイの人数分の諸負担は親方から出る。ヤトイは契約で決まった金額が入り、豊不漁には関係なかった。
古川では地元の人でないとブカタに入れないので、個人の家にヤトイできて、そこからブカタで出ることがあった。したがって網オロシの日までは番屋に入らず個人の家にいた。