[ニシン場への出稼ぎ]

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 ニシン場への出稼ぎには、ほとんどの家の男が出かけた。戦前は樺太(サハリン)方面が主体であったが、戦後は利尻、礼文や留萌、増毛方面が主な出稼ぎ先であった(本章第一節参照)。ニシン場では下海岸の漁師は特にシモ衆といわれ、喧嘩が強いと評判であったという。
 渡島半島の日本海側でニシンがとれた当時は、寿都より南を早場所、岩内から北を遅場所といった。ここには、歩いて行ったもので、八雲から山に入って日本海側に出た。夫婦で出かけることもあったという。この頃にはニシン場に出かける時期も二月末から三月にかけてで、五月末まで従事した。
 明治四十二年生まれの人の話では、父親の頃は、岩内方面に多く行ったという。自分の頃にはこの辺はとれなくなっていた。二一歳の時、磯谷のニシン場に出稼ぎし、二〇〇石の漁獲があった後にはとれなくなった。この時には、黒松内から着替えを背負って歩いた。磯谷から岩内方面を上場所(かみばしょ)といい、磯谷が中心であった。後は留萌、増毛を上場所というようになった。磯谷にニシンが来なくなってからは、下海岸の漁師の出稼ぎ先は樺太(サハリン)が中心となった。