世帯員数には、鰯漁の親方や仲買・商売人などの富裕層と一般の漁民層との間や、本家と分家との間に差がみられた。鰯漁の親方の家では、一つの敷地内に数家族が同居することがあった。一方、一般の漁民の人たちは、戦前には、長男のみが家督を相続したため、次男以下は九尺二間の納屋のような小屋をもらったり、自分で小屋を建てて独立したという。それらの家には、夫婦とその子どもたちの七人から一〇人が住んでいたという(吉田正明談)。また、青年や中年の男性は、戦前には、道内やカムチャツカ・樺太の鰊場や漁場へ、戦後は北洋漁業の乗組員や首都圏に建設労働者として出稼ぎに行くことが多かったために、昆布漁のはじまる夏までは父親不在の世帯も多かった。
戦後あたりまでは、多少の増減はみられたものの世帯員数の平均は増加し、昭和二十年代より、減少の一途をたどった。すなわち戦後の銭亀沢地区の世帯は、小規模化や核家族化の傾向が顕著にみられる。
平成六(一九九四)年の七月に銭亀沢地区で世帯構成などについてアンケート調査を実施し、二一〇名より有効回答をえた。この地区の調査時点での世帯員数と世帯構成は、表3・3・3および4に示すとおりである。そのサンプル調査によると、二人世帯が六〇世帯と最も多く、以下三人世帯五三、四人世帯四五、五人世帯三七の順になっており、二人から四人の世帯が多いことがわかる。また、世帯構成については、夫婦世帯や核家族世帯が非常に多いことがわかる。一方、二組の夫婦を含む二世代家族である拡大家族世帯の数は二五で、全体の一二パーセント余りと少ない。特に世帯の高齢化が進み、老人世帯が増加しつつある。
家族関係の中心は世帯主の男性であるが、出稼ぎの時には母親が世帯の中心となった。一般漁民の家でも、世帯主とその妻の座る場所は決っていた。家族の風呂に入る順番は、父や祖父を除けば、決まっていなかった。
表3・3・3 員数からみた世帯のタイプ
表3・3・4 世帯構成