鶴野地区の本家と分家

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 銭亀沢地区の内陸側にある鶴野地区は、明治末から大正期にかけて東北地方から入植した農家が多いところである。現在では、酪農、馬鈴薯と野菜作りが中心であるが、入植当時はソバ、大豆、小豆の栽培が、その後、男爵いもの栽培や酪農が導入された。この地区には、宮城県出身の一〇戸程度と石川県出身の一〇戸程度が入植したが、それぞれのグループは親族集団のようなものであった。
 しかし集落は、親族集団や出身地を基に形成されることはなく、各戸が分散し点在する形態となっており、多くて二、三軒の集落であった。家は、畑の所在地に関係なく、所有地の中で、湧き水があり、道路に近い所に建てられた。昔は井戸を簡単に掘ることができなかったから、親戚同士が井戸のまわりに地理的に近接して集まるということはなかった。
 この地区では、本家・分家関係はあまり強くなく、お正月やお盆に分家が本家の所に集まることもなかった。あまり親戚間に上下関係はなかったようだ。マキという言葉も使われていない(高橋 豊談)。銭亀沢地区では、漁村部でも農村部でも生業経営の上での本家と分家の結びつきは、それほど強くはなかったと思われる。本家、分家が集まり集団として機能したのは、冠婚葬祭の時であった。一方、日常生活では、隣近所との助け合いが顕著にみられたことは注目に値する。