石崎漁業協同組合の村づくり運動

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 昭和三十七年に、出稼ぎを少なくし、経済的に安定した漁村に脱皮することを目的に村づくり運動がはじまった。この運動の中でも、漁業協同組合は中心的な役割を果たしてきた。
 石崎地区では、石崎漁業協同組合が主体となって、昭和三十六年より関係諸機関と村づくり推進のための協議がおこなわれ、翌三十七年三月には村づくり推進協議会が設立された。昭和三十六年から昭和三十八年までの三年間の実態調査や現状把握のもと、部落座談会、総代会や役員会の協議を経て、基本計画が策定され、昭和三十九年四月より村づくりのための事業が実施されるにいたった。計画完了予定は、昭和四十八年であった。この村づくり運動は、昆布採取業など沿岸漁業を地区の基幹産業と考えながらも、農畜産や水産加工などの副業の奨励を計画の中心とした。
 まず昭和三十七年七月六日には、当時の銭亀沢村村長を委員長に「石崎漁協地区村づくり推進委員会」が設立された。メンバーおよび所属は表3・3・9のとおりである。
 村づくりの骨子は、水産資源の維持培養、副業の奨励、労働分化の適正化、生活の合理化など一〇項目からなっていた。昭和三十七年の第一年次には、浅海増殖事業として投石による魚礁づくり、新農山共同放牧場事業として牧場づくり、北海道低位経済町村条例資金による短角牛五〇頭の導入、船外機資金の貸付け、植林事業として一一町歩に三万三〇〇〇本のトドマツの植林、組合員の購買事業などを実施した。
 石崎地区は、市街地を除けば、一八〇町歩の背面地、八〇町歩の専農地、二〇〇町歩の牧場と一二三八町歩の植林地がある。これを活用し、副業としての農業、畜産と植林が計画、奨励された。市街地では水産加工が、背面地では養鶏と養豚が、専業用地ではアスパラ栽培、牧場では短角牛の飼育、そして植林地では植林事業が計画された。そのために、漁業協同組合の中に、水産加工部会、アスパラガス耕作部会、養鶏部会、短角牛飼育部会などが設立された。
 アスパラガスの栽培が計画されたのは、昆布の採取期である七月から十月までの繁忙期に、その採取(五月から六月)がぶつからないからであった。同じく短角牛の飼育は四月から十一月までは放牧、十二月から翌年の三月までは舎飼をおこなうので、二〇〇頭程度の飼育は地区の漁業の兼業としては最適と考えられた。一方、養鶏や植林はすでに実績があり、事業が可能であると考えられた。
 昭和四十二年三月三十一日現在、石崎漁業協同組合の組合員は二八〇名、そのうちの二〇パーセント五六名が水産加工部会に、二八・五パーセント八〇名がアスパラガス栽培部会に、九・六パーセント二七名が短角牛部会に、四・六パーセント一三名が養豚部会に、四・二パーセント一二名が養鶏部会に、二・八パーセント一〇名がビート栽培者部会に入会、活動していた。しかし三〇・三パーセントである八二名は副業をおこなっていなかった。
 この村づくり運動は、赤字で採算が十分にとれず、一〇年余りで終わった。農牧畜に不慣れなうえに夏場は漁民は忙しすぎて畑や飼育動物を十分に管理できなかったことなどが一因となった。また、村づくり運動の一環の昆布・ワカメ養殖漁業の導入とその成功が、これら農畜産業離れをひきおこしていったとも考えられる。

表3・3・9 「石崎漁協地区村づくり推進委員会」の構成員(昭和37年現在)