婦人会

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 昭和九年の『村勢一班』によると、字銭亀に銭亀沢本村婦人会(会長井口イツ)があり、会員数が五九名とある。設立は大正十二年。これらは国の指導によってつくられたものであったという(倉部善太郎談)。
 戦時下には、村に連合婦人会が、各大字には国防婦人会と愛国婦人会があった。国策のためにつくられた婦人会である。国防婦人会は、出征兵士の見送りやその家族の慰問の活動をおこなっていたが、会としては、会長と副会長の役職があったのみである。愛国婦人会の方は、大字志海苔や大字銭亀の人で、当時の女学校を出た人たちが結成したが、あまり活動はしなかったようである。
 戦後、各大字に婦人会が再発足した。昭和二十三年に発足した古川尻婦人会は、樺太から帰ってきた〓(イチシメ)川村の奥さんが初代の会長に就任した。当時の古川尻婦人部は、六つの部に分れており、各部から一名ずつ部長が選出されていた。さらに、各部には一〇軒に一軒の割合で班長が選ばれ、連絡係の役割を果たした。婦人会は、物資の配給、祭りやかぐらの手伝い、村の衛生検査の補助、料理の講習会などを活動としておこなっていた。一年に一回、総会が、社務所や町会館で実施された。昭和三十一年度の銭亀沢村の婦人団体は六団体で、構成員総数は五三五名であった(『村勢要覧』)。部落会の中の婦人会が、各大字を単位に機能していたが、昭和四十一年の函館市との合併以降、町内会の婦人部として存在している。
 また、昭和三十年代には、既述の石崎漁業協同組合婦人部と同様に、各漁業協同組合の中に貯蓄推進や生活改善を目的とした婦人部が創設された。たとえば、銭亀沢漁業協同組合の婦人部は、銭亀、湊、古川、石倉の四つの大字(町)から形成され、全体の部長は一名、副部長は各大字(町)から一名ずつ計四名が選出された。また大字古川は、六つの部に分れており、各部を代表する六人の婦人部長がいた。各部には二ないし三名の班長がいた。大字古川の場合には、町会の婦人部と漁業協同組合の婦人部は併任しており、貯蓄活動や相互扶助の活動をおこなっていた。
 部落会や町会の婦人部役員と漁業協同組合婦人部の役員とは地域によっては併任していたが、そうでない場合には、運営上で問題も少なからずあったという。