その支配交代のあった明治十二年の神社調査については、表3・4・2のとおりである。明治五年の調査と比較した場合、社名変更をした根崎の「川濯社」、新たに造立もしくは管下に組み込まれた志苔村の「稲荷神社」と亀尾村の「大山祇神社」を除けば、その大筋ではさほど大きな変化はないように思う。
その中にあって、一際大きく目立つ変化が一つだけある。それは、いずれの神社においても、由緒の年時が確定され出した点である。明治五年の調査では、再建年時を別とすれば、すべての神社は「起原不詳」であった。それがどうであろうか。根崎の川濯社(寛文三年-一六六三)、志苔八幡神社(天正年中-一五七三~九二)、銭亀沢八幡神社(正保元年-一六四四)、銭亀沢の石倉稲荷神社(明和六年-一七六九)、古川尻の川濯社(明和元年-一七六四)、石崎八幡神社(永享年中-一四二九~四一)というように、この明治十二年に及んで、ことごとくその造立年時が確定される。