「明神講」は、根崎町や古川町でもおこなわれていた。その中で、石崎町と志海苔町が最も盛んであり、その講運営もまちまちであるが、昭和期に始まった点では一致している。推測するに、近世以来、地内と密接な関係を持ってきた「湯倉明神」の「明神」が、名称から推して、この講の創始に関係しているのではなかろうか。
一方の「観音講」も、古川町のように、寺院の代用として始まった所もあるなど、その様態はさまざまである。もともと地内の中世から近世には、「志野里観音堂・銭亀沢観音堂」(『福山秘府』)があったことを思えば、昭和の戦争期に再生的に祭られたものといえなくもない。
いずれにしても「明神講」と「観音講」が、昭和の戦前期に北洋漁業の隆盛と戦争を背景にして、地内の女性を中心にして祭られるようになった女性中心の講であることに、間違いはない。