前述のように、銭亀沢村には昭和九年の時点で「神習教」(白木教会)と「天理教」(宣教所)が存在していた。この「神習教」と「天理教」は、日本宗教史上で「新宗教」と呼ばれる宗教団体である(「戦時下の宗教」『函館市史』通説編第三巻所収)。
昭和九年の頃、白木教会で祭られる「神習教」を、地内では「白木さん」とか「白木神社」と通称していた。この白木神社の初代神主上関徳治(一八六九~一九四三、父は南部出身)は、明治三十二(一八九九)年の頃、湯川の一角に、通称「平出牧場」を保有していた。たまたま、徳治は現在の湯川植物園付近に温泉を発見し、そこに二階建ての旅館を建て、旅館経営を始めた。しかし、生業よりも学問好きの徳治は、放蕩の末、全財産を失った。食のあてを失い、絶望の縁に沈んだ徳治が足を運んだのが、“栃の木”であった。そこで、一人の盲目の老翁に出会う。近世の昔から縁結びとしても知られるこの“栃の木”のもとでの老翁との語らいが、徳治の“栃の木さん”への入信の一大契機となった。
徳治の娘イサ(一九〇三~一九六三)と結婚して二代目を嗣いだ光一郎(一九〇二~一九八八)のときに、「白木神社」を創建、大正十四(一九二五)年のことだった。光一郎は、父徳治に神社の管理を委ね、自らは函館のデパートに丁稚奉公をしたり、呉服の行商に励んだ。徳治なきあとは、光一郎が宮司として、妻イサは祈祷・占い師として白木神社の発展に力を尽くした。
戦時中には、この“栃の木さん”には、出征の安穏はもとより、イサの祈祷を求めて、病気・豊漁・育児・恋愛と実にさまざまの人たちが参詣した。当時の年二回の祭礼は、北洋漁業の隆盛と戦況の激化という時代背景をうけて、五〇〇人前後の信者が集う壮大な祭りであったという。
この“栃の木さん”ともいわれる「連理木」は、『初航蝦夷日誌』(弘化二-一八四五年)でも、「縁結び等を願ひける人」が参る場として、幕末から人に知られていた。それが、大正十四年の「白木神社」の創建を機に、「神習教」としての体裁を整えていった。伝承として伝える日露戦争に関わる“栃の木”伝説は、明治・大正・昭和の「近代天皇制」の「帝国主義化」と比例して、軍神的な性格も付加されていったと考えられる。
昭和九年の『赤い夕日』第一一号所収の「郷土調査三週間・歴史」が伝える次の一文は、当時の地内の生徒はもとより、老若男女のすべてが信じていた「白木様」への思いであったに相違ない。
古川町と港村の境を流れる汐泊川の上流に小さな神社がある。此の神社こそ下海岸に有名な栃木様である。此の神様は縁結びとか、子育てとか、又眼病を治す不思議な力のある神様だと言はれてゐる。(中略)初夏の頃のお祭には参拝者が大変多い。或お婆さんの話だが、明治三十七・八年戦役に此の神様が戦に出て、敵軍の為に負傷して帰つて来た事が言ひ伝へられてゐる。其の現れとして、其の当時に栃木様から赤い血のやうなベトベトしたものが幹から出て來たさうで、村の人達は皆、繃帯や供物を持つてお参りしたと言ふ。栃ノ木様の由緒は此処に栃の連理木がある為による。