出稼ぎ家庭を守る

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 現在、古川町の婦人部長をつとめる西村洋子(昭和生まれ)も、漁家の家に育ち、漁家に嫁ぎ、漁家の家の女の強さを知る一人である。
 彼女の父は寿都出身で、ニシン漁にきて、戸井町に住む母と知り合ったという。両親と兄四人、妹三人、弟二人の一二人家族の長女だった彼女は、物心ついた時には、イカ・ニシンの大漁続きだったため、小学校二、三年の頃から母親の代わりに一升釜でご飯をたいたり、妹や弟を背負って登校したりしたという。
 彼女は、昭和四十五年、戸井町から隣町の古川町に住む漁師のもとへ嫁いできた。五人兄妹の三男だったこともあり、結婚してからは夫婦だけで生活をした。出稼ぎをしていた夫は、結婚してから一週間ですぐに古平へ漁に出かけてしまった。まったく知らない人の中で結婚早々に一人にされ、その心細さはいうまでもなかった。その後も夫は仕事でほとんど家にはいなかった。四月、五月はニシン漁、五月から七月は北洋漁業へ、八月から十二月には前浜でのイカつりのため家に戻ることも多かったが、根室の北洋船団に乗ると、十二月までは戻ってこないこともあったという。また一月から三月までは船をおりるが、その時も名古屋や川崎へ出稼ぎに行ってしまうという生活だった。そのため漁師の妻となったが、自らは漁業に従事することはほとんどなかったという。近所では、船にのって生計をたてている人は少なく、収入が少ないことや危険をともなうことなどから、会社勤めの人が多くなっていた。
 夫がいない分、子育ては大変だった。普段の毎日はどうにか暮らせたし、夫も帰ってきた時は、一生懸命子どもを可愛がってくれたが、子どもの就職や進学のことについては本当に困ってしまい、実の兄に頼ったという。また、よそから嫁いできた彼女が一番困ったのは、屋号と名前が一致しなかったことだったという。
 「よそ者」といわれたこともあり、婦人会に入ることで、少しでもこの土地になじもうと努力し、昭和五十五年に婦人会に入会した。その彼女は、現在、志海苔町にある季節保育所の先生として働いている。昭和五十一年から勤務して、二〇年以上もこの地区の数多くの女性たちとかかわってきた。勤めはじめた頃は、三歳以上の子どもが四五人も通っていたのに保母はたった二人だった。今は一一人の子どもに保母二人。保育期間は四月から十二月だが、一月から三月までの間でも、節分やひな祭りの時は、お祭りを企画して子どもや母親らと楽しむ。保育内容は市内の保育園とほぼ同じで、保育時間は八時三〇分から四時四五分まで、一〇年ほど前までは八時から五時までだった。以前は、そのほとんどが漁家の子どもだったが、現在は一一人のうち、親が船にのっているのはたった一人で、出稼ぎに出ている親はいない。
 保育所では、行事などがあった時や父親が出稼ぎなどでいない時に、父母会が中心になって集まり、悩みごとを話し合ったりしてきた。その中でたくさんの母親と接してきた彼女は、時代を経るごとに、母親のようすが少しずつ変わってきているという。いろいろなものが便利になり、家事が合理化され、子どもが少なくなったことなどにより、一世代前の母親に比べたら自分のための時間が増えたこともその理由の一つであろう。また、「嫁には自分たちと同じことはさせてないよ」という姑の考え方も、この地区の女性の姿に影響を及ぼしているのだろう。