道路割・屋敷割の復原的考察

368 ~ 368 / 521ページ
 銭亀沢地区にいつ頃から人が住み着いたのかはよくわからないが、中世期にすでに志苔館に人が住んでいたことにあきらかなように、かなりの集落があったとみてよいであろう。ただし、この集落がそのまま近世ないし近代につながったかどうかはわからない。
 「新羅之記録」(『新北海道史』第七巻史料一)によれば、一六世紀初めに和人と「夷賊」の戦乱で志苔館が陥落しており、和人集落が一旦途切れているとも考えられる。
 開拓使文書(北海道立文書館所蔵 簿書番号一七八四、二八二六)によれば、一六世紀末ないし一七世紀初頭にはすでに土地の私有または権利が成立していたらしい。そして、現地調査および聞き取りで判明するそれぞれの古い集落形態が、地形に即したある程度共通の形態をとっており、これが近世段階の形態を伝えていると考えられることである。
 それでは、近世期からの集落である志苔村字志苔、銭亀沢村字本村、字湊、字古川尻および石崎村字石崎について、それぞれの村落空間を具体的に見ていこう。また、字石崎が拡張する過程で形成されたと思われる例の一つとして字白石を取り上げる。

図4・3・1 屋敷地比較図