出産には、それまで「とりあげ婆さん」とか「テンニャクババ」と呼ばれる出産に手慣れた年寄や、経産婦で経験の豊かな婦人などが介添えをして赤子をとりあげていた。しかし昭和十一年に中村トメさん、昭和十三年に井口イソさんと二人の免状持ちの助産婦が開業すると、この地域の出産状況も大きく変わってきた。出産の姿勢は、これまでの座って産む座産から寝て産む仰臥位の出産にかわり、全面的に助産婦が指導し介助するようになった。中村さんは主に旧銭亀沢村の古川から戸井町の小安あたりまで、井口さんは銭亀を中心に志海苔から新湊までの地域でそれぞれ長年にわたり助産婦を勤めた。古川では木村サワさんが井口さんの少しあとに開業したが何年もたたずに函館に移転した。
座産の頃は産室になる部屋の畳を一枚剥がし、床板の上に米俵をほぐして敷き、その上に洗濯したボロ切れや古い布を重ねて産床を作った。米俵の上に木灰を置くこともあったという。これをス(巣)と呼び、サント(産婦)はその上に座って出産した。出産の様子は人によって一様でなく、後から腰を抱いてもらったり、天井からぶら下げた力綱につかまったりとさまざまであった。
出産への夫の関与はまったくみられず、出産時には、「夫は家にいるものではない」とそばへも寄せ付けられなかった。とくに漁家ではお産をケガレとして忌みきらう風潮があったのでそのせいかもしれない。
やがて座産は二人の助産婦の熱心な指導もあって徐々に仰臥位の出産へとかわっていった。しかし、初産を座産でした産婦からは、「寝ていたのでは力が入らずお産ができない」「布団が汚れる」と反対された。そこで、「自分の腰にかたく紐を巻き付け、それにつかまらせて力ませた。サントが死に物狂いで引っ張るので、それに負けまいとなると大層な力が入って、帰宅するとぐったりしてしまった」という。昭和十六、七年頃になると座産はほとんどおこなわれなくなった。
出産の場所は、秋田から来た嫁が初子の時だけ実家へ帰って出産したという例があるが、ほとんどは婚家で、それも夫婦の寝部屋というのが多かった。しかし昭和四十年代に入り国道二七八号線が整備され自家用車が普及してくると、函館の病院で出産するようになってきた。二人の助産婦は昭和四十八年頃に井ロイソさんが、昭和五十三年に中村トメさんがそれぞれ廃業した。