三三九度と披露宴

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 祝言は仕事の終わった午後五時頃から六時頃にかけて始まった。婿方の招待客は襖(ふすま)や障子を取り払った広間に集まって嫁の一行の到着を待った。婚家に入った嫁は広間の一隅を屏風で囲んだ中に案内され、床の間を背にして婿・ナカド・両家の両親と共に席につき三三九度の「盃ごと」をおこなった。広い家では別室を用意して招待客の控室や「盃ごと」の式場にしたりしたが、多くの家では控室がとれず、屏風で仕切った中で、あるいは招待客の見守るなかで「盃ごと」がおこなわれた。婿は黒の紋付羽織に袴を着用し嫁は黒の留袖に角隠しが一般的であった。振袖が着られたのは一部富裕層の家か、または戦後になってからであった。
 三三九度の盃は、サンマイサカズキともいい、ナカド立ち合いで小盃から中盃、大盃へと三度盃を交わした。始めに婿・嫁が夫婦盃を、次いで両親との間で親子盃が交わされた。亭主役が司会進行をつとめた。亭主役には婚礼の儀礼に精通し、司会進行に巧みな人が選ばれた。
 三三九度の後、回した屏風を取り払い席を改めて披露宴となる。正面に新郎・新婦・ナカドが座り、側面左右には両家の親・親戚・招待客などが着席し、亭主役の司会で宴が始まる。親戚では本家の主人が上座に座った。新婦は途中から着替えて接待にでた。宴は午後一〇時頃までにはお開きになったが、なかには朝まで夜通し続くこともあった。婚礼は招待制で人数は家によってさまざまであるが、一般には三〇人から四〇人で、オオヤケで七〇人くらいであったという。出席者は祝儀として酒(熨斗紙付き一升瓶)とお金を持っていった。前日まで自宅に届けられた祝儀は床の間に飾っておいた。お返しにタオルや風呂敷を出した家もあった。
 戦前から若者たちが集まって、宴席に空き樽などの入れ物を持ち込んで酒肴を入れてもらい、飲み食いするタルイレという習わしがあった。戦後もしばらくおこなわれていたが、昭和三十年代後半にはみられなくなったという。
 翌日は手伝ってくれた人(テツダイト)や近所の人たちを招いて家族が接待役になってアトヒキをやった。
 銭亀沢ではこのように、多くの客を招いて披露宴をおこなう婚礼の外に、婿・嫁それに両家の親族五、六人が出席してごく内輪におこなわれる婚礼の形がみられた。これをロブチコンあるいはロブチシュウゲン、ロブチゼンなどという。これは炉端でおこなわれる婚礼なのでそのようにいわれるが、必ずしも炉端とは限らず、ごく少数の身内だけで簡素におこなわれる婚礼もロブチコンと呼んでいた。
 ロブチコンがおこなわれるのは、一つはスキズレで一緒になった場合で、当時結婚相手は親が決めることであって、スキズレのような恋愛結婚は世間的にも好ましいものとはみられていなかった。もう一つは経済的な理由からで、出稼ぎ者や子方同士、あるいは分家する時の婚礼に多くみられたという。
 昭和三十年代になると、戦後始まった新生活運動によって冠婚葬祭の簡素化が唱えられ、婚礼の儀礼も変わってきた。石崎ではこれまでの招待制が会費制となり、会場も自宅から漁業協同組合事務所の二階を利用するようになってきた。漁業協同組合の青年部が会場設営や進行を担当し、婦人部が料理を手作りした。引出物は廃止された。昭和三十五年から昭和四十七年までに七三組が漁業協同組合で挙式した。
 しかし昭和四十年代の後半から五十年代に入り、世の中が経済的に豊かになるにつれ、簡素化された婚礼への物足りなさからか、湯川の旅館や神社の結婚式場を利用するようになってきた。現在は函館市内のホテルでの挙式が圧倒的に多くなった。